よからぬ考え
「左之っ!てめぇっ、またよからぬことを考えてやがるな、ええっ?」
土方の日の本の言の葉により一喝がとどろいたのは、スー族の集落に到着し、数日経った朝のことだ。
原田は槍遣いだ。かっこうよくいえば、槍術家である。いまさら、ではあるが。そして、このなかに槍を主の武器とするのは原田だけだ。これもまた当然のことであるが。
江戸柳生は、もともと領地じたいが大和であり、すぐ近くに宝蔵院流の総本山があったため、そことの交流も盛んだった。ゆえに、新陰流を学ぶかたわら、おおくの門弟たちが槍術を学び、そこそこ遣えるようになる。
辰巳もまた同様で、もともと江戸柳生であった辰巳は、宝蔵院流を遣えたどころか、「柳生の大太刀」の試練によってまみえた胤舜によって、宝蔵院流の秘伝を叩き込まれ、それを会得した。
胤舜とは、江戸時代初期の僧であり武術家で、宝蔵院流の基を築いた槍の達人である。
辰巳は、それを原田へと繋げた。
一方で、尾張柳生もまた、槍術とはきってもきれない縁を、尾張貫流槍術と結んでいる。津田権之丞信之が尾張佐分流(おわりさわけりゅう
)の奥義を齢十六にしてきわめ、さらに独自のものをもってして基を築きあげた。それは、尾張藩主をも魅了し、いわゆるお家芸として伝えられることとなった。そして、こちらもまた宝蔵院流とおなじく、槍および剣の二芸は「車の両輪、 鳥の双翼の如し」、「槍法を知らずして刀術を語ることなかれ、刀法を知らずして槍術を語ることなかれ」と伝えており、新陰流や円明流などとともに「とのもの太刀」として会得する。
尾張柳生家は、この尾張貫流槍術をよく遣う。
槍術を遣えたほうが、馬上の敵と対するのには有利であることはいうもでもない。というわけで、原田と柳生親子が、本格的に槍術を指南することとなった。
それには、ある程度の長さの木の棒が必要になる。
土方の一喝がとどろいたのは、その木の棒を探しているはずの原田が、木の棒が絶対に、確実に、ないとわかっている場所を、ふらふらと歩いていたときだった。
馬たちの動きがとまり、息もひそめられた。空に浮かんだ雲まで、風がやんだのか頭上でふんわり浮かんだままでいる。
「なにいってんだ、副長?おれがなにをやったってんだ?おれはただ、鍛練用の木の棒を探し・・・」
「てめぇっ!寝惚けてんじゃねぇよ、左之っ!」
土方は、全速力で駆けてきた。餓鬼の時分から「バラガキ」と呼ばれ、悪さや悪さ、悪さに悪さをかさねてきたおかげで、逃げ脚だけでなく獲物を追う脚も速いのが自慢なのだ。
「ここに、ここーーーに、槍の長さの木の棒が落ちてるってのか、えええええっ!」
そして、土方はすっかり郷に入って郷に従えと化していた。いまも、白人も驚くほどの大げさな表現を、長身の原田の前で示している。体躯全身をつかい、放牧されている馬たちを示したのだ。
「ああ?副長、あんた、料簡が狭すぎやしねぇか?ここは日の本じゃねぇ。木の棒が必ずしも木のあるところにあるとはかぎらねぇだろう、ええっ?」
原田は逆切れした。それは、後ろ暗いことを指摘されたときにおおくの人間があらわす一般的な反応だ。
馬たちはかたまったままだ。このままでは窒息死してしまうかもしれぬ。
微風がゆっくりと大地を歩きはじめた。同時に、指笛の澄んだ音色も・・・。
頭上の雲が、青い空をゆっくりと膝行しはじめた。
馬たちは、とめていた息をしはじめた。
スー族の集落には具体的な牧場はない。見渡すかぎりの大地そのものが、かれらの放牧地、なのだ。
「なにあれ?左之さん、また賭け事にまつわることに悪知恵を働かせてるんだろうか?」
「懲りねぇよな、左之さん」
その様子を、仲間たちはいつものごとく面白がってみている。
沖田、そして、藤堂につづき、永倉が額に掌をかざしながらせせら笑った。
「副長も副長だな。大人げなく喚き散らすなんざ、まるで気の強え女子・・・」
そこまでいったとき、永倉だけでなく、沖田や藤堂の背にも、はっきりと殺気という名の矢が突き刺さった。
「やべっ!」永倉は、矢を放った者を確認するまでもなく、駆けだした。沖田と藤堂も倣う。とばっちりもいいところだ、とくさりながら。
こんな馬鹿ばかりをやっているうちに、一日一日が加速度的にすぎてゆくのだった。




