剣豪と神獣
『厳蕃、きいておるのか、ええっ?』
もう幾度目かの呼びかけに、厳蕃はやっと秀麗な相貌を白き巨狼へと向けた。
「なんだ?」
『ぼーっとするなと申しておるのだ。おぬし、まことにおかしいぞ?おぬしのぼーっとしておるのまで、まさか「性悪の甥」の所為だと申すのではあるまいな?それとも、うちなるものを怖れ慄いておるのか?』
ふふんと、白き巨狼は鼻を鳴らすと嘯いた。これで厳蕃がかっとし、いつものやりとりができると踏んでのことだろう。
「狼神、うちなるものに意識を譲ったら、否、奪われたら奪い返すことはできるのか?」
が、返ってきたのは、気弱な笑みとさらに気弱な問いであった。
白き巨狼は嘆息した。人間のように、白くふさふさした毛に覆われた前脚の上部を竦めた。
「いっそ、奪われでもしたほうが、らくになれるのだろうな・・・」
それは、厳蕃が言の葉として紡ぎだしたのではなく、心の奥底で揺らめいた小さな焔であった。
『阿呆か、おぬしは?』
その言の葉には、揶揄の響きより、むしろ憐れみが存分にこもっていた。
「叔父上・・・」
幼子だ。叔父の近間に入らぬところから、かわいらしさと美しさとが鬩ぎあっている相貌のなかに、驚きの表情を浮かべつつみ上げている。
「わたしは、このくそったれの白き虎とわかりあっておかねばならなかった、というのか?性悪の甥と蒼き龍について、仲良くおしゃべりせねばならなかったのか?」
指が四本しかない掌を、ひときわ大きいティーピーへと向け、それを指差した。
「そうしておれば、いま、ここでこうして不安に押し潰されそうにならずにすんだと申すのか?自我をおしとどめ、保つ最大限の努力をしいられずにすんだと申すのか?」
その叫びは、怒鳴り声となり、暮れなずむスー族の集落を駆け抜けてゆく。
残っている仲間たちが、厳蕃の怒鳴り声に驚きの表情で注目した。
『厳蕃、おぬしはよくやっている。おぬしらはよくやっている・・・』
なだめるような落ち着いた声音に、厳蕃はわれにかえったようだ。
『叔父上、意識を奪われたとて、叔父上ならば奪い返すだけの精神力をおもちだ』
幼子は、こちらを注目している仲間たちに背を向け、意識の最下層で語りかけた。言の葉にしては、「伯父上、怖い。かように怒鳴らないでください」と甲高い声音で訴える。
『お忘れか?「The lucky money(幸運の金)」号で、蒼き龍が兄神に会いたいというので、われらはそれぞれ意識を明け渡した。ちゃんと戻してくれたでしょう?それは、これからも同じこと。あのときと同じことなのです』
たしかに、幼子のいうとおりだ。船上で、蒼き龍の望みを叶える為、白き虎にしばしのときをやった。すぐに意識は戻った。しかも、蒼き龍は辰巳と会わせろという、厳藩の望みを叶えてくれた。
強き精神力があればよい。負けぬだけのものさえあればいい・・・。
「伯父上の助兵衛っ!」
甥の叫びに、厳蕃はまたしてもはっとさせられた。
「鼻の下が伸びています。あそこのきれいな女性・・・」
「伯父にむかって助兵衛とはなにごとだ、坊っ!」
いわれのない非難にかぶせ、厳蕃は気色ばんだ。
『性悪の甥よ、礼を申す・・・』意識の最下層でそう語りかけながら、言の葉にしては「助兵衛は、おまえの育ての親だ。なにが十三人だ。わたしなら、十五人はゆけるぞ」そう宣言した。
『それが助兵衛と申すのだ』「やはり助兵衛です、伯父上っ!」
白き巨狼とその育て子の叫びもまた、暮れなずむスー族の集落を駆け抜けていったのだった。