気を統べる者
わが子の名がやっと決まった。これには大分と苦慮した。疋田と柳生、そして土方。さらには故人に縁の名・・・。そのすべてを取り入れるには一人子ではすくなすぎるだろう。
「勇景」。近藤勇の名と疋田家が代々受け継ぐ景の字を用いることとなった。つまり、父母のそれぞれの家には関わりがなく、かえってその方が公平だろうと判断した。
これには親族だけでなく仲間たちもおおいに喜んだ。当然だろう。とくに沖田などは、句の出来はひどいがこれは近年まれにみる傑作、とご満悦だ。
幼名は敢えて与えなかった。自然と「坊」と呼ぶようになっており、故人の新撰組での二つ名のようなものだったそれは、ごく一般的な幼児を呼ぶときのものと同じもの。意識的か無意識か、そう呼んでしまうのも無理からぬことだろう。土方と信江でさえそれを拒むどころか同じように呼んでしまっている始末だ。
坊はみなから可愛がられる存在であると同時に、剣士としてもすでに認められてもいた。全員がよき手本であれという意欲とともに、その一方ではすぐにでも追い抜かれるのではないのかという焦燥感を抱き、それらは鍛錬へと結びつく。まるで剣をはじめたばかりの時分のように進められる鍛錬。無論、得物は剣や槍だけにとどまらない。銃はこの船の小柄な拳銃使いのフランクに元傭兵の狙撃手のスタンリーたちに手ほどきを受けた。そして、義兄が祖国から持ってきた数 張の和弓。義兄自身とスー族の戦士たちが手ほどきしてくれた。
祖先から受け継がれた狩猟、とくに弓に関する技術はスー族も日の本の弓術のそれと大差ない。初めて手にする和弓でもとくに不便を感じさせず、静止している的でも海上に投げられる皿などでも確実に射抜いた。
「あー、副長、あんた、癖がひどすぎるぞ」
永倉は相対する土方に近づくと掌にしている木刀の切っ先で容赦なく土方の左の爪先、ついで右のそれを突いた。
「おれの記憶が正しけりゃ、あんた、理心流の目録だったろう?」
「あぁ?文句あるか、新八?」土方は正眼のつもりの構えをとくと眉間に濃く皺を刻んだ。噛みつかんばかりの勢いでいい返す。
「新八さん、凄い記憶力ですよね。だって、副長の目録の事実は、句作のことより世に知られてないんだから。あっ、目録もぎりぎりだってこと知ってました?癖がひどくて、でもって、ご本人に直す気がまったくないんで、周斎先生がお情けで下さったんですよ」
周斎とは天然理心流三代目宗家で、後に近藤勇となる嶋崎勝太という少年の力を見出し、それを養子とした近藤周斎のことである。女たらしでそれにはだらしなかったが、剣の腕前と人間をみる目は確かだ。近藤勇、沖田総司、そして土方歳三。この三人を世に送りだしたといっても決して過言ではない。そして、当時の試衛館道場の門人であった井上源三郎、食客であった山南敬介、永倉新八、原田左之助、斎藤一、藤堂平助も近藤勇に対してだけでなく、この周斎にも敬意を払っていた。
突然転がり込んできた童のことも周斎はその側面を見抜いていた。
田舎剣術の宗家は、天然理心流の名を世に知らしめる礎を築いてこの世を去ったのだ。
「総司っ、てめぇっ!」木刀を振り翳そうとした掌が止まった。わが子が見上げており、視線が合ったのだ。掴まり立ちができるようになった息子は、いまも育ての親に支えてもらいながら両掌に握った軽めの木刀を振り回していた。振り回す、といっても、むやみやたらにではなかった。木刀の切っ先を大空に向けて振り上げ、そしてそのまま下ろす。下ろすのも惰性だ。まるで自身ではまだ絞ることができずに振り下ろすのを途中で止められぬことがわかっているかのようだ。そして、木刀の握り方も誰が教えたわけでもないのに左の小指と薬指を柄頭の先端できっちりと握り、右掌は鍔の辺りに添え、基本に忠実に習った握りをしている。もっとも、小さな掌に木刀は太すぎたが。
「父っ!、父っ!」甲高い声とともに脚も体躯もよろよろと安定しないまま必死に振り翳される木刀。刹那、その周囲で土方と沖田のやり取りをにやにやしながら眺めていた市村ら若い方の「三馬鹿」はその場から一斉に飛び退った。それより経験も年齢も上の者たちは、飛び退るまでではなくとも等しく身構え、得物を握り直していた。その中には無論父親も含まれている。
永倉、そして沖田、斎藤までもが発せられた重圧に反応していた。
誰の背筋にも鍛錬で流れたものとは違う種類の汗が流れ落ちただろう。
上段の構え。否、ただの上段ではない。それは、あらゆる流派の中でも最強と謳われる示現流の初太刀の構え。生前、近藤は常日頃から「示現流の初太刀はかわせ」といっていた。剣豪にそういわしめたほどの威力を持つ示現流の初太刀。
掴まり立ちがかろうじてできる程度の赤子の構え。そもそも、軽めとはいえ木刀を振り翳すだけでも十二分に奇異なことだ。それを行うだけでなく、並み居る剣士たちをも警戒させるだけの気も発した。 これが驚き以上のものであるとしたらいったいなんだというのか?
「みてっ!みてっ!」赤子が甲高い声で叫んだその瞬間、等しく重圧が取り除かれた。
内心はどうあれ、父親だけでなく全員の視線が赤子の足許へと下がる。
小さな足だ。右が前に、左が後ろに、後ろ足は踵がこぶし一つ分床から離れている。丹田に力を入れているのか、いまは上半身もしっかり安定していた。
そしてなにより、その小さな両の足先はまっすぐ前を向いていた。左右に開いた父親のそれとは違い・・・。
「副長、残念っ!あんた、息子にもう負けてるぞ。っていうか、これだけきれいな示現流の構え、鉄のをみたんだろうがみせた側よりきれいにできてる」
永倉が称讃すると、なにゆえか市村が歓喜の声を上げた。
「うわっ、おれのを真似たんだ。すげぇぜおれ」
こいつ、やっぱ馬鹿だ!幾人がそう思っただろうか?
「疋田陰流を使うんだろう、あんた?なら、せめて身についたとんでもない癖の数々を直すとまでもいかなくとも控えるよう努力してみてくれよ」
永倉は弟分から継いだ疋田陰流を土方に手ほどきしようとしていたのだ。永倉の溜息混じりの懇願に土方もまた溜息を禁じえない。
もはや理心流など記憶の彼方になっているほど我流が強く、すなわち癖だらけになってしまっている。それこそ頭のてっぺんから爪先まで。それをどう軽減させよというのか?
それは神の存在を認めることよりはるかに難しいことだ。
そうか、神頼みか。神ならなんとかしてくれるかも?よからぬ考えが土方の脳裏をよぎる。
「甘いっ、それは無理だ」刹那、背後から無常な言が飛んできて土方の背にあたった。
「いくら武と戦の神でも一個人の悪癖を直すことはできぬ。それ以前に、そのようなことは多少の努力と工夫で直るものだ。義弟よ、夜這いする際、足先を互いに違う方向に向けて獲物に忍び寄るか?獲物の夫や両親にみつかって逃げるとき、右前に重心をかけたまま疾駆するか?」
「確かに・・・」義兄、すなわち尾張柳生第十七代宗家の助言に従い、再度土方は正眼の構えを試みた。義兄がいった状況を思い描きながら。無論、この場に妻がいなくてよかったとも思いながら。
「へー、すごいすごい」沖田が讃辞を送った。さきほどとは比べものにならぬほど土方の構えはきれいになっている。
「さすがですね、師匠」そして、沖田らしくその讃辞の送り先は癖を直してみせた土方にではなく、たった一言で直させた元尾張柳生宗家に対してであった。
「その調子だ、義弟よ。そして、わが甥よ」
「伯父っ!伯父っ!」
上段に構えたまま嬉しそうに呼び掛ける甥の前に両膝を折ってから、伯父は渋面を作った。
「だめだ、まったくなっておらぬ。それはただ木刀を持ち上げているだけだ。それにいちいち気を発するな。相手に、周囲に、そうと悟らせるな。発するときはその場にいるすべての気を支配せよ。そして、この木刀はおまえの掌だ。ただ上げ下げするだけの棒切れではない。おまえの掌は、相手の喉笛を、頭部を、体躯を、確実に斬り裂かねばならない・・・」
だれもが驚いた。すでに父親への助言の内容とは比較にならぬほど難しくそして濃い。それにもましてまだ歩くこともできない赤子に相手を殺すことを教えるとは・・・。
「厳周、この子に手本をみせてやってくれ」立ちあがりながら呼びかけると剣士たちの間から尾張柳生第十九代宗家がおずおずとでてきた。例の海賊惨殺の一件以来、父子の関係がどうもぎくしゃくしている。それを周囲も気がついてはいるが、そっとみ護っているのが現状だ。
「鉄の示現流は桐野利秋、「人斬り半次郎」直伝。申し分ない。おぬしも鉄の構えをみているからできるはずだ。気の統べ方も教えてやってくれ」
構えだけならみただけで再現できるのだ。
「いいのですか、父上?」「無論だ。門弟相手では本気も出せなんだであろう?久方ぶりに気を開放するがいい。来る試合の予行にもなる。みなにお主の力の片鱗でも示しておけば、すこしは見直しまともに相手をしてくれるであろう。みな、厳周の気にあてられるな。鉄、銀、良三、悪いがおぬしらはまだ経験が浅い。腕前云々の前にこれは次元が違うのでな。悪いがその場に座り、できるだけ他のことに気を逸らすのだ、よいな?」
厳蕃のいうことだと負けず嫌いの市村でさえ尋常でないことが起こることがわかっているらしく、素直にその場に座り込んだ。後の二人はいうまでもない。
「みていろ、そして感じてくれ、坊」「兄っ!」厳周が従弟の頭を撫でてやると、従弟は構えを解いて嬉しそうに笑った。その拍子にひっくり返りそうになったのを、育ての父が白い巨躯で即座に受け止め支えてやる。
日の本にいた時分、本気で気を開放したことはなかった。その機会はまったくなく、知りうる限り開放できる二人の相手は、一人は開放するまでもなく逆にその強大な気にあてられ屈してしまったし、いま一人は最初から相手にならないだろう。それどころか相手とすら認めてくれぬだろう。
だが、いま、その一人から命じられた。開放するだけで相手もいないが。それでも命じられただけで嬉しかった。なぜなら、認めてくれているから命じてくれたのだ。そう信じたい。
厳周は船での鍛錬が愉しくて仕方がなかった。尾張でも愉しかった。だが、いつでもたった独りだった。門弟たちと蟇肌竹刀を振るうことは滅多となく、藩主の指南役という役どころから道場で鍛錬することもままならない。深更、たくさんの桜の樹の間で「関の孫六」を打ち振る毎日。 春になると舞い散る桜の花びら相手に舞うことができた。だが、それもやはり一人。
いまは違う。力も精神も自身より強き者たちとともに鍛錬し歩めるのだから。
そして、父の瞳・・・。自身に向けられる関心。尾張や京では感じられなかったそれが、いまではひしひしと感じられる。
真実を知ったのはまだそう遠い昔ではない。父は暗殺者だった。しかもそれは実の息子や家の為ではなく実の甥の為であった。さまざまな事情から仕方なかったと納得せねばならなかったはずだ。だが、それでもやはりたまには気にかけ、語り合ってもらいたかった。それが本音だ。死んだ従兄に嫉妬している自身・・・。従兄はすごかった。それに対して自身は・・・。従兄とは力や精神がまったく違う。そして、生まれ落ちた瞬間から天と地ほど差があった。それらすべてを理解している。だが、それでもやはり嫉妬せずにはいられない。いられないのだ・・・。
背に強く感じるのは二つの気。ともに柳生という兵法家の血を受け継ぐ者の気。
船の進行方向、中央マストに体を向けた。その方向には誰もおらず、仲間たちは左右に離れた位置にそれぞれ立っており、手本をみせるべく従弟はすぐ右側でみ護っている。
木刀を握る左掌をゆっくりと上げる。眼前まできたときに右掌を軽く添え、ともに上げてゆく。
上段は好みではない。なぜなら、それが攻めのみの型だからだ。ゆえに流派では滅多にこれを遣う者はいない。だが、好みでないのとできないこととは違う。
「解・・・」口中で封印を解く。そして、みえぬ相手、否、嫉妬深く、父に依存する腑抜けな自身を相手と見立て、それに闘気を、そして殺気を放つ。
凄まじい気。その重圧に耐え切れず、相馬や野村、山崎に島田が片膝を床につかねばならなかった。
「くそっ!」さしもの「魁先生」も生まれ育った国の言葉で罵りの呻きを上げ、ふらつきをかろうじて耐えねばならなかった。それは伊庭も同じで、圧されて不覚にもふらついたところを斎藤が支えてくれた。とはいえ、斎藤もふらついた伊庭にもたれかかったようなていたらくで、両者で支えあっているというのが真実であろう。
「なにこれ?」沖田も原田も、そして永倉も立っているのがやっとだ。
(これほどのものだったのか、わが甥は?)土方も耐えきれずにふらつきかけた。右側からその甥の父親の掌が、左下からは白き狼の巨躯が、それぞれ支えてくれた。まずは義兄を見下ろすと、そこにはなんともいえぬ父親の表情があった。土方もそれには驚いたが、いまは子を持つ同じ親として理解できぬものではない。
つぎに左下に視線を移す。白狼が自身に寄り添ってくれているのなら、わが子はどうなっているのだろう、と。
わが子は先程と同じように再び上段に構えを取っていた。しかもいまは厳周の上段とまったく同じだ。その双眸はしっかりと従兄を見据えており、支えがなくなったことも父親にみられていることも気がついていない。凄まじいまでの集中力だ。
刹那、厳周の小柄な体躯が三、四間向こうに飛び退った。
床に片膝つき荒い息をしながらこちらを、厳密には土方の息子をみている甥。
このときはじめて気がついた。このすさまじいまでの気、甥のものではなく息子のそれへとかわっていたことを・・・。
背後に感じていた気の一つの性質がかわった。気を開放しきった直後のことだ。敵意や殺意、害意が含まれているわけではけっしてない。だが、凄まじいまでの気は、自身よりも強大で圧倒的だった。自身の気は圧されるどころかあっという間に消されてしまった。耐え切れずに距離を置く。そして、それを発した者をみた。
従弟が自身をみている。なんともいえぬこの重圧感はたしかにどこかで感じたことがある。ずっとつきまとっている違和感。それは赤子のうちに宿るうちなるものの所為かと思っていた。真にそれだけの所為なのか?
なぜなら、これと同種の気を発した者は、けっしてうちなるものなどではなく人間の、しかも柳生の者だったからだ。
重圧に耐えながら厳周は従弟をかろうじて見据えた。
(おまえはいったいなんなのだ?)
その問いは幼い従弟にたしかに届いたであろう。
 




