Baby's first words(初めての言の葉)
総司がなにを企んでやがったのかがやっとのことでわかった。
それは市村たち餓鬼ども、いや、もう漢になったのだが、元服式も無事終えた数日後のことだ。
その日も曇り空。最近は空も曇天、めっきり寒くなっていた。最終目的地まであとわずか。北上をつづけている。
この日はあらゆる意味で思い出深い一日となった。
珈琲の入ったカップを片掌に、おれは息子がみえる位置で立っていた。ああ、さらに厳密にいうと、育ての親たる壬生狼が息子を鍛錬してるのを物陰からみ護っていたわけだ。
息子はこのくそ寒いなか、おむつだけの姿で甲板をはいはいして回っている。腰に縄がくくられていて、その先には水の入った桶がくくられている。
なんてことだ。息子は三貫(約10kg)以上ある水桶をまるでわが身一つかのように軽々と引っ張って回ってるってことだ。
わが子の成長はじつに早いって感慨深げに珈琲を啜りかけ、「いや、そりゃ違うだろう」と自身で突っ込んでしまう。
どこの世界にはいはいの時期から鍛錬する赤子がいる?しかも腰に三貫の重さの水桶をくくりつけて。 狼神の子育て、ってか生き抜く為の躾は完璧なんだとあらためて思う。
あいつも同じように蝦夷で丸太か大岩でも引っ張らされてたにちげぇねぇ・・・。
『両方だ』白き巨狼が答えてくれた。おれが隠れみてるのを知らぬわけはない。
『あの子は丸太だろうと大岩だろうと引き摺ることができた』
だろうな・・。そりゃ嘘でも誇大でもねぇ。あいつならきっとやる。あいつなら・・・。
何人もの仲間がやってきてはやたらと自身を売り込んでいった。
そのなかに総司がいた。そして、やはり総司はやってやがったんだ。
「ほら、いってごらんよ」総司の囁き声が冷たい風とともに流れてきた。わが子は他の者が声を掛けるときと同じように這い進むのを中断し、相手をしっかり見上げ律儀に耳朶を傾けている。
「ほ・う・ぎょ・く・そ・う・しょ・う」もう何百回と繰り返したであろうその日の本の単語。新撰組でも幹部級の者にしか意味をなさない最大級の秘事。
「これは天下に並ぶ者なき駄作の天才の雅号だよ」
『神は無慈悲だと思うか?』獣神の問いは、どちらに向けてのものか?っていうか、そりゃどういう意味だ?
おれはこの件に関してだけは、つまりは総司のからかいに対してだけはまったく耐性がない。これはいまにはじまったことではなく、それこそあいつにこの崇高なる活動を知られて以来繰り返されているいわば儀式のようなものだ。
そして、おれは今回もまんまとのっかっちまってた。
「ええ、とても無慈悲だと思いますよ、壬生狼。あなた方は当人にとっても周囲の者にとっても容赦なく無慈悲すぎます」
「馬鹿総司っ!」おれは隠れていた木箱の裏から飛び出して怒鳴っていた。その拍子にカップから珈琲の大半が磨き上げられた床に飛び散ってしまった。
「おれの句作が神 級に・・・」「あなたっ!」おれの叫びに女子の叱咤がかぶさった。反射的に頚をすくめ、怒鳴り声のほうを振りかえっちまう。
おれの真後ろ、近間どころか懐の内に信江が仁王立ちになっていた。刃で突き刺されていたら死んでいたであろう距離。気配を感じさせなかったのはさすが柳生の血筋、といったところか?っていうか、いったい仲間の連中はなんだ?
おれの妻の凛とした表情。きれいだ、とあらためて想う。
「神を冒涜どころか教育上もよくありませんっ」ぴしゃり。おれは口唇を開けることすらできない。「鬼の副長」もみる影もない。
「太古よりまさしく強気は女なり」って心中で考えちまってからしまった、と思った。無論、遅すぎた。
『じつはあの子はありとあらゆる創作も才能があった。真にあの子が継がねばならなかったのはこれだったのだ。ゆえにあの子の唯一の誤算といえるであろうな』あの子も育てた巨獣の思念が流れ込んでくる。それは、おれの心の臓に刃を突き立てたようなもんだ。
「ほんとほんと。近藤さんも草葉の陰で泣きじゃくってますよ。ねっ、わかったでしょ、壬生狼?いまのだけじゃない。もっと有名な「梅の花 一輪咲いても梅は梅」ってのもありましてね。これはもう神々の存在をも否定されていますよ。狼神、天誅のご命令があれば、おれは喜んで神の尖兵となって迷わず斬っちゃいますよ?」
「総司ーっ!それに壬生狼っ!糞ったれども!」「あなたっ!!」
「おーっい、なんの騒ぎだ?」信江の迫力ある怒鳴り声に他の仲間たちも集まってきた。
信江に頭ごなしに叱られているおれを目の当たりにし、妻帯者だった新八や左之は気の毒そうに、それ以外の者は「鬼の副長」の成れの果てをそれぞれ驚きを超えた表情で眺めていやがる。
なんてことだ。おれは愛する妻に頭ごなしに叱られながら心中で神を呪っていた。視界の隅に三神が映っていることを承知で。そして、神々がおれの呪いの辞を受け止めるであろうことも承知で。
そのとき、それは起こった。なにゆえこの機会だったのかはこの際考えないでおこう。それは人間の人生の中でおおいに意義があり、また思い出深い一頁となる出来事・・・。
ずっとみなが待っていて、ここにいる全員が期待していた。おれたち日の本の者だけでなく、ニックやキャスだってそうだし、乗組員たちやスー族の戦士たちだって必死にそれぞれの言語で話しかけていた。それは、ひとえにこの一語の、歴史的一語の為だったのだ。
「父さん、父さん」
甲高くたどたどしいそれは、実の親ではなく育ての親を呼ぶ言葉だった。
おれの愛息の初めての言葉は、狼神を呼ぶアイヌの言葉だった。




