過小評価
「父上、父上、お待ちくださいっ!」
父親の小ぶりの背に叫びながら、厳周はあらためて父の背がこんなに小さかったのか、と驚きを禁じえないとともに、そう驚いている自身にも驚いた。
かようなこと、これまで一度も考えたことがなかった。それどころか、厳周にとって父親の背は、いつも大きく、けっして越えること叶わぬ壁であると信じて疑わなかった。
はっとすると、父親が体躯ごと向き直っていた。
「わたしに雑念があると?女子に気をとられているとでも申されるのか?」
厳周は、またしても驚かざるをえなかった。父親にこんなことをぶつけるとは・・・。先日、ケイトを連れてゆくゆかないを議論していたときも、つい反抗してしまった。いまもそうだ。
女子のことで?剣術や家や自身の行いなどではなく、女子のことで、父親にたてついていると?そう思いいたり、さらに動揺してしまう。
「女子?それならば健全だ。かえって喜ばしい」
父親がいっていた。それから、鼻を一つ鳴らした。
「性悪の従兄にかかわるな」
「なんですと?」厳周は面喰った。それが正直なところだ。同時に、ケイトが従兄を「悲しみしかない」といったことで、自身がそれに囚われていることを自覚した。
雑念とは、ケイトのことではなく、ケイトのいったことだったのだ。
「息子よ、われわれは辰巳をみくびっていた。辰巳は、われらとは違う。剣士として、人間としてまでも・・・。もはや、勇景に生まれかわった死んだ甥やら従兄やら、という奇跡の域ではない。可愛らしい甥やら従弟というのは、もはや過去のことなのだ・・・」
そう告げる父親の声音は悲痛だ。秀麗な相貌も、声音に劣らず悲しげだ。
やはり、二人の間に、父親と辰巳の間にはなにかある・・・。心中をよめるわけもないが、厳周はそう直感した。二人と同じ血をもつからこそ、かろうじて感じられるのだろう。ということは、叔母にもわかっているはずだ。
いったいなにが・・・。そして、これからどうなるのか・・・。
「たいそうなものいいだ、叔父上・・・」
その当人は、いまや親子の間に立ち、可愛らしさから美しさへと脱皮しつつある横顔をみせていた。、いつの間にか、橡の枝上から飛び降り、両者の間に立っていたのだ。
どちらとの間にも、五間(約9m)ほどの距離があるが、辰巳にとって、それはさほど意味はない。刹那以下の間に、間を詰めることができるからだ。
「従弟殿、あなたは京で初めて会ったとき、わたしをその姿形でみ誤った。それは、いまも同じだ。もっとも、いまはわたしのほうが従弟ですが・・・」
辰巳は、勇景の相貌を厳周に向けた。その無邪気な笑みは、あきらかに従兄を兄と慕う幼く小さな従弟のものに違いない。
「さらに、女子の言に誑かされ、わたしを哀れみ、みくだしている」
そこに、無邪気な笑みはなかった。それにかわり、浮かんでいるのは、ぞっとするほどの冷笑である。
「そして、叔父上、あなたも息子同様、姿形に惑わされ、昔のままの辰巳だと錯覚している。それはいまもつづいている」
冷笑は、厳周からその父親たる厳蕃へと向けられる。
「あなたもまた、わたしを哀れな非嫡出子と哀れみ、みくだしている」
厳周もその父親も返すべき言をもたなかった。
夜のしじまが痛いほどだ。野生の小動物や鳥たちも、息を潜めているに違いない。
「体躯の成長とともに、わたしは力を取り戻してゆきます。さらに、鍛錬を重ねれば・・・」
邪悪ともとれる含み笑いは、可愛らしさと美しさとが同居する小さな相貌には不釣合いだ。
「あなた方は、辰巳の本性を知らぬ。世の中には、知らぬままのほうが幸せなことも多々あるのです」
単調な言がしじまを歩いてゆき、厳蕃・厳周親子の耳朶を心地よく打つ。
「知らなくてよい。穢れたことは、穢れきった獣に任せれておけばいい。いまはまだ、親族ごっこを和やかにつづければよいのです・・・。そう、させてください、叔父上、従弟殿・・・。お願いいたします・・・」
「わが息子よ、女子の扱いについては、そなた自身の叔父を頼るがいい。そなたの叔父は、そういうことにかけては、あらゆる流派をも超越した神であろうから」
「なんですと?わたしの叔父である前に、父上、あなたの義弟ではありませぬか?」
「伯父上、兄上、真面目に鍛錬してください」
いい争っている柳生親子の頭上で、その甥であり従弟が可愛らしい声音で懇願した。
橡の枝に小さな両脚をひっかけ、腰には大岩を鎖で吊るし、生真面目に腹筋をする幼子。
「それだけ余裕があるのなら、さらにもう一つ岩を追加してもよさそうだな、わが甥よ?」
非情なる叔父の提案に、「神様!」と系統の違う神に救いを求める甥。
「弟は耐えられても枝が耐えられませぬ、父上っ!」
そして、冷静に突っ込む息子であり従兄・・・。
柳生家の深更の鍛錬は、こうしてすぎてゆくのだった。




