悲しみしかない人間
『ケイトッ!ケイトッ!』
厳周の呼ぶ声が届かぬのか、ケイトは母屋の裏口の扉を開け、そのまま入ってしまった。それを追いかけ、厳周もそのまま扉から入っていった。
『キャアッ!』厳周が裏口から入った途端、ケイトが悲鳴を上げた。
それもそのはずだ。斧を掌に入っていったのだから・・・。
『ご、ごめん』厳周は、慌てた。すぐに扉を開けると、裏口の壁に斧を立てかけ、扉を閉め、あらためてケイトと向き合った。
ほかの多くの家屋と同じで、フレデリックの母屋も台所に裏口がある。
『ケイト、どうしたんだい?なにかあったのか?』
厳周は、両の掌でケイトの両の肩を掴んだ。
すると、ケイトの瞳から泪が溢れ、それは瞬く間にかのじょの頬を濡らした。
『あなたの従兄弟が・・・』
『わたしの従兄弟?』馬鹿みたいに繰り返したが、厳周は一瞬、だれのことかわからなかった。
『坊?かれがなにかしたのか?』ようやく、思いいたった。が、従弟ではなく従兄かもしれない、とも思った。
ケイトはまず、なにもされていないと答えてから、あったことを話した。
「トシチカ、なぜ、かれはあんなに悲しいの?」
ケイトは、日の本の言の葉でそう尋ねた。
あんなに悲しいの・・・。厳周には、その意味を量りかねた。英語を知ってから、日の本の言の葉が難しいということを知った。否、実感しているといったほうがいいかもしれない。
「ケイト、それはどういう意味・・・」厳周もまた、日の本の言の葉にし、そう尋ね返した。すると、ケイトは厳周の胸に飛び込み、そのまままた泣きつづけた。
「かれは悲しみでいっぱいだわ・・・。かれには悲しみしかない・・・」
「なんだって・・・?」厳周は、ケイトを抱きしめることに躊躇した。と同時に、聴覚では悲しみ、というところに衝撃を受けた。
「ケイト、どうしてそんなことを・・・」厳周は、ケイトを抱きしめるというところでは軽く、で妥協することにした。ゆえに、軽く、自身ではかなり力をこめず、それでいて亜米利加人には拒絶ではないと受け止めてもらえるであろう程度に、華奢な体躯をそっと抱いた。
そして、つぎへの問題に直面した。ケイトがいっているのは、従兄のことだと推察できた。一瞬、あの農場の、はじめて会ったときに起こった、あのことをききたくなった。ケイトは、あそこでなにをみたのか?従兄はあそこで、ケイトになにをみられたのか・・・。そのすべてをききたくなった。
が、できない。従兄の本性を、辰巳の本来の姿を、知ることに抵抗があった。そしてなにより、ケイトに思いださせたくなかった。いや、それは辰巳のことを、ではなく、ケイトのそれまでのすべてを、人生だったものをについてだ。
『最初に会ったときより、かれはもっと悲しみに満ちている・・・。かれは、かれはきっと、その悲しみに押し潰されてしまっている・・・。かれをみていたら、わたしも悲しくなるの。泪が、止まらない・・・』
ケイトは、厳周の胸のなかで英語で訴えていた。シャツを通し、ケイトの泪が感じられる。それは、温かかった。熱い、と感じられるものだった。
さらに悲しみ満ちている?押し潰される・・・?
厳周は、心中で幾度もそれを反芻した。ケイトが感じていることは、自身には感じられない。従兄の悲惨で過酷な人生は知っている。ゆえに、従兄は、ケイトのいうとおり悲しみに満ちているのだろう。それを知っているからこそ、自身は従兄がそうであろうことはわかっている。だが、ケイトのいうように、感じるということは、正直できない。というよりかは、ケイトだけにどうして感じられるのか?そのほうが不思議だ。
「お、叔母上っ!」
驚きのあまり、厳周は日の本の言の葉で叫んでしまった。
眼前に、しかもケイトをはさんでではあるが、近間の位置に信江が立っていたのだ。
その自身の胸のなかには、いまだ泣いている少女がいる・・・。とりようによっては、厳周が泣かせてしまった、ということになるだろう。
だが、そこはやはり、よむことに長けた一族である。
「気配を絶っていたわけではありません。あなたの不覚です。それは兎も角、厳周、わが甥、いえ、息子も同然ながら、あなたの不器用さに驚きを禁じえません」
信江は、日の本の言の葉で静かに告げた。
「父上に指南を乞うのは抵抗があるでしょうから、叔父上に相談なさい。叔父上なら、女子の扱いにかけては皆伝でしょうから」
それから、信江は口許に分厚い掌をあて、ころころと笑った。そして、甥から少女を引き継ぎ、かわりに抱擁した。
『ケイト、お願いがあるの・・・』
信江は、英語にかえてそう囁いたのだった。




