天体観測
「兄上、しっかり・・・」
信江の平手打ちか、あるいは呼びかけに反応してか、ようやくうつろな瞳が信江のそれへと向けられた。その瞳は、信江自身の息子であり、甥でもあるそれに似ていた。
「兄上、いったいどうされたのです?」
「わたしは・・・。信江・・・。あの子は?わたしは・・・。わたしは大丈夫。あの子のことが気にかかる・・・」
「大丈夫でございます」信江は嘘をついた。否、正確にはどうかわからない。
「ぼーっとされて・・・。いくど呼んだことか?」
信江の兄は、いまだぼーっとしている。
「わからぬ・・・。いくつかの光景がみえた・・・。それがなになのか・・・」
思いだそうとすると、こめかみに鋭い痛みが走る。
眉間に皺を寄せては呻く実の兄を眺めながら、信江は、正直ほっとした。暗示が解けたかと思ったのだ。さすがは辰巳だ。辰巳のそれがそう簡単に解けるわけもない。だが、信江自身が息子であり、甥にかけたそれは、辰巳のものほど完璧でもなければ強靭でもない。もしくは、ということもありえるだろう。
「兄上・・・。無理なさいますな」
信江は、兄の頭部をそっと抱きしめた。あのメテオライトの影響かと思いながら・・・。
「無理なさる必要はございませぬ。必要なときには、おのずと思いだせるはずでございます」
胸のなかにある兄に、幾度も呟く信江。
それはまるで、自身にいいきかせているようであった。
兄をなだめた信江は、息子を求めて引き返した。息子は、メテオライトが創りだしたといっていい小さな池の傍に一人ぽつんと佇み、池をぼーっと眺めていた。
おそるおそる信江が呼びかけると、存外元気な声で応じた。しばし話を、「伯父上は大丈夫なのか?」「伯父上は大丈夫でした」、という話をしたが普通であった。
すくなくとも、信江には普通だと感じられた。
その日も終日、フレデリック老の農場の整備、修繕に全員が奮闘した。厳藩も同様で、みなが休むようにいってもきかず、ともに働いたのだった。
そのご褒美に、その夜もまた、うまい食事と酒にありつけた。
『ほうれ、とっておきのものを貸してやろう』
うまい食事と酒の後、フレデリック老は家からなにかをもってきた。
家のなかの灯火の光に、焼き物で使用した暖炉代わりの篝火が、周囲を淡く浮かび上がらせている。
そして、大空には、この夜もまた星と月とがその光の優劣を競い合っている。
『これは、今朝のメテオライトの騒動の後、親父にねだって買ってもらった望遠鏡じゃ』
老人は、筒状のものを右の掌に、木製の三脚のようなものをもう片方の掌に戻ってきた。三脚のほうは、小柄な老人の背丈ほどある。それらを、老人は自慢げに抱えてみせた。
『おお、みたことがありますよ。戦のときに』
相馬だ。かれの探究心はあらゆることに及ぶのだ。老人に負けず劣らず興奮している。
『違う違う。これは天体観測用のであって、向こうのほうをみるってものではないのじゃ。ものは試しじゃ、みてみぃ』
老人は、手慣れたもので、それをあっというまに設置し、相馬に使い方を教えてやった。
いわれるままに瞳をそれにあて、のぞきみる相馬。
『すごい!月が、月がかように大きく・・・』
相馬の興奮した怒鳴り声は、農場のなかに響き渡ったに違いない。
『おれもみたい』『わたしも』『まてまて、順番だ』
このときもまた、だれもが興奮し、みたがった。
客人たちが興奮状態で天体観測するさまを、フレデリック老は満足げにみつめていた。
その皺だらけの老いた相貌には、客人たち以上にうれしそうな表情が浮かんでいた。




