「近藤の剣(つるぎ)」の信念
航海は順調。天候にも恵まれ、ともすればなにもないこんな日々に溺れてしまいそうな、平穏で静かな日々。気温が下がっていることが肌で感じる。これまでの熱気や快晴は、冷気や曇り空へと変化している。
船は亜米利加の東側をゆっくりと北上していた。
武士たちは自らの心身を鍛えることに余念がない。
わが子の成長。やはり普通でないことはその速度にも顕著にあらわれており、土方は他の普通の父親よりもかなり早くさまざまなことを体験できるのだった。
その日、日中のことだ。自身の剣の鍛錬の合間に珈琲なるものをカップから飲みながら甲板を歩いていると、いつものようにわが子が甲板の床板に座って漢たちの鍛錬をみていた。
この珈琲なるものはじつに苦く、またなにやらわけのわからぬものが沈殿し、およそ人間の呑めるような代物ではない、と一行の多くがそう判断した。実際、牛乳や紅茶やホットチョコレートは呑んでもこの珈琲だけは呑めぬあるいは呑まぬ者がほとんどだ。だが土方は違った。苦味のなかにも焙煎された香ばしさ、渋み、こういうものがなんともいえず、すっかり魅了されてしまった。この大人の味は、土方やその義兄たる厳蕃、永倉や原田といった一行でも年長者たちは気に入り愛飲するまでになっていた。ちなみに、市村や厳周といった子どもや若者らはこれを「鬼と神の呑み物」と呼んで近寄りすらしないのだった。
いまはしっかりと安定した座りをみせている息子の前に両膝つき、めずらしく真剣な面持ちで息子に話し掛けている総司が傾けるカップの向こうにみえた。
胸騒ぎがするのはなにゆえか?
「おいっ、総司」語気鋭く、そして眉間には何本もの皺を刻むと弟分につかつかと近寄った。
北上するごとに気温は下がっており、これまで半袖のシャツに七分丈のズボンで過ごしていた連中も、いまでは長袖長ズボンを着用している。無論、総司もその一人で、ニックが提供してくれた売り物の服を着ている。
「てめえっ、おれの息子に話し掛けるんじゃねぇ!っていうか、なにさぼってんだ、てめえぇは?」
こいつ、よからぬことを考えてやがる。それは確信。
「えっ?それは心外ですね、副長?おれはあなたの息子に話しかけることすらできぬのですか?それにおれはなにもさぼってるんじゃありませんよ。たまには壬生狼に昼寝でもしてもらおうとこの子の面倒みるのを代わっただけです」
軽快に立ち上がると向かい合う。初めて会ったとき、こいつはまだ十三、四歳位の餓鬼だった。こいつも姉さんに育てられ、家の事情でいわば口減らしの為に試衛館に内弟子に入った。こいつもまた出会った時分は寂しげで弱々しかった。だが、それがいまはどうだ?いったい、どうなってしまったんだ?神に問い質したくなるくらいだ。
「そりゃすまねぇな、気を遣わせちまって。で、なにを話してた?なにをいってやがったんだてめぇは?」詰め寄った拍子にカップからおどろおどろしい色の液体が飛び散り、床に落ちた。
「副長・・・」心底心外だという表情だ。その足許では息子が「あー、あー」といいながら総司のズボンの裾に掌を入れ、足首を握っている。それまでにやにやとした表情で向き合っていたが、弾かれたように視線を足許に向けた。先程までとは違い真面目な表情にかわっている。
「どうした?」さらに眉間に皺を寄せて尋ねた。
「土方さん、あなたの息子、どちらの血を濃く受け継いでるんでしょうかね?」
「はあ?なにいってやがる・・・。どういう意味だ?人間か神かって意味か?」
総司はなにも答えなかった。上半身を折ると相貌を息子に近づける。
「話しのつづきは後でゆっくりきかせてあげるよ。だからその掌はなしてくれないかな?」
やさしく話しかけながら、髪がすっかり生え揃った頭を撫でてやる。すると、息子は沖田の双眸をしっかりとみつめ、「あー、あー」となにやらいい返した。それから素直に沖田の足首から小さな掌を離した。
「この子はどこの流派を正式に継ぐことなるんです、土方さん?」
「ああ?おめぇ、大丈夫か総司?」そう返しながらも総司の問いの内容についていずれは真剣に考えねばならないことも確かだと思った。
「天然理心流、この子にも教えていいでしょう?」息子からおれへと向き直り、さらに真剣な表情でいう総司。その声音にはなにか切羽詰まったものが感じられた。
「総司、理心流はおめぇがいる。おめぇ以上に適任者はいねぇよ・・・。かっちゃんはずっとそれを望んでた。その望みを叶えてやれたんだ、おめぇは孝行者だ」
「土方さん・・・」まさかそのように返ってくるとは思わなかったのだろう。意外そうな、それでいて嬉しそうな表情がその端正な相貌をよぎった。そして、照れ笑いを浮かべつつ赤子に握られた側の足を浮かせ、ズボンの裾をめくり上げた。
小さな掌の跡がくっきりと残っていた。
総司は足首が折れてしまうのではないかと思えるほどの激痛を耐えてやがったのか。
「土方さん」総司は片脚立ちになり、うまく平衡を保ちながら真っ赤になった足首を擦りながらつづけた。
「おれはこの子は神である前におれたちと同じ人間であると、確かに下手な句作ばかりする鬼の血をひいてるかもしれないけれど、立派な人間の子だと思ってる。そして、立派な剣士になる素質が充分ある。素質だけじゃない。この子自身剣士としてすでに鍛錬を始めてる。疋田を継がなきゃならないことも柳生の血をひいてることもわかってはいる。だけど、理心流、近藤さんの剣はより強き者に継承しなきゃならない・・・」
総司は真剣だ。その茶色がかった瞳をみればよくわかる。下手な句作、というところは大目にみることにして、弟分がこれほどまでに「かっちゃんの剣」のことを想い、それに固執しているとは思いもしなかった。たしかに、こいつだけは餓鬼の時分から「天然理心流」一筋でけっして他の流派に流されたりしなかった。それどころか見向きもしなかった。あくまでも敵の技を知っておく、程度だ。そして、あいつから託された柳生の秘伝。これだけは総司も理心流とは違う意味で極めようと必死になっていることを、おれは知っている。
かっちゃん、おれたちの弟分は立派に流派を護りきってくれるぞ・・・。親友に語りかけずにはいられない。
だが、表立って盛り立てられぬのが悔しい限り、だ。
なぜなら、おれも総司も死んでいるのだ。
「生意気いうんじゃねぇよ、宗次郎」おれはカップを握らぬほうの掌を伸ばすと弟分の頭を手荒く撫でた。わざとこいつの幼名で呼びながら。
「おめぇはまだ若い。継承なんざまだ早すぎる。おめぇ自身がまだ研鑽が必要だろうが、ええっ?それにこいつは」視線だけをわが子にむけると、わが子もおれを見上げて視線を合わせてきた。「あー、あー」となにかいっているが、なにをいっているかまではわからない。いまの「あー」が言葉になればどれだけうるさくなるかわかったもんじゃない。義兄の忠告が思い起される。幼児によくある「なにゆえ?なに?」の攻撃。どれだけ晒されようと親としてはかわすわけにはいかぬだろう。
「あー、あー」わずかに荒くなったか?まさか、心中をよんで非難しているとでも?
「この子、よんでますよね?」総司にもよまれていたのか、おれはぎょっとして総司の頭から掌をひいた。ここにはよめる者が多すぎる。なにも考えられなくなるじゃないか?
「そのうち口をきかなくてもよくなるかもな?兎に角、こいつは教えなくともしっかり遣えるようになる。おめぇこそ油断するな。こいつが木刀握ってまともに歩けるようになったら、最初に「沖田の三段突き」を放つだろうよ。ご本人様より凄まじい、ものをな」
「ええ、きっとそうでしょう」意外にも素直に認めやがった。正直、驚いちまう。
「試衛館の道場の窓からのぞいておれたちの練習を一、二度眺めてただけで、あの子はおれの自慢の技だけでなく、天然理心流、北辰一刀流、神道無念流そのものをわがものにしたのですから」
こいつはあいつとは違う、といいかけたがなぜか否定できなかった。またわが子と視線が合う。ずっとつきまとうなにか・・・。頭を左右に振って気を入れ直す。
「不味っ、よくこんな泥みたいなもの呑めますよね?気がしれない」
おどけたような総司の非難にわれに返った。おれの掌からカップを奪い、珈琲を啜って表情を顰めている。
「馬鹿野郎っ!こりゃ大人の呑み物だ。お子様はホットチョコレートでも啜ってろ」
「はーい。じゃっ、われらがお母上にご馳走になりにいこうか、兄弟?」
おれの子を抱き上げ、去ってゆく総司の背をじっとみつめた。
「信江はおめぇの母親じゃねぇよ、総司っ!」口中で呟くとともに、結局、あいつがなにをしていたのか?うまくはぐらかされたことに気がついた。
その後も誰かしら必要以上にわが子に熱心に話し掛けているのを再三みかける。
いったい、なんだってんだ?そのつど珈琲を啜りながら眉間に皺が寄るのは、なにもその「大人の呑み物」が苦いから、という理由じゃねぇのはいうまでもない。




