「Ave Maria」
突然、起こったこの騒動を、もはや止めるべき、否、止められる者がいない。
それまで、四十を一行の一番後ろにつけ、その鞍上でおとなしく座っていた幼子は、一つ小さな溜息をついた。
人間って本当に面倒くさい、と思った。それをいうなら、神だって面倒くさい。
よくもこんなくだらぬことで揉めたり喧嘩ができるものだ・・・。
幼子は、周囲をみまわした。どこまでもつづく平原。なにもない。一本の道だけが、自分たちの前方につづいている。
昔、清でも蒙古でも、露西亜でも、同じような光景があった。さらには、欧州や阿弗利加でも。
どこでも人間は同じだ。人種、肌の色、髪の色、瞳の色は違えど、根本的なものは同じだった。
幼子自身のうちにいるのは、清国の古き神獣と蝦夷の大神であるが、基督教圏にながく滞在したことから、その教義にすくなからず触れていた。胸元で十字を切る習慣も、その頃のものだ。じつは、以前、島田に指摘された襟元を隠すしぐさも、それをごまかす為でもあったのだ。
人殺しが神を?神をも畏れぬ畜生が?悪魔ともいえる自身が?
よくわかっている。おそらく、それはただの偽善であり、それを信じることでごまかそうとしているだけなのだ。
なにかに縋りたいという気持ちは、弱者だからこそもつもの。信じたいという気持ちは、弱者だからこそ念じたいもの。
幼子は、いま一度小さく溜息をついた。
こんなささいな揉め事も、平和で余裕があるから起こるのだ。
それが人間、というものなのだ。
逆の発想をもつことで、すこしは納得するとしよう。
幼子は、四十の鞍の上にゆっくりと立ち上がった。それから、息を吸い込むと口唇を開いた。
ぎゃーぎゃーと、口争いは拡大していた。止めるべき者こそがその中心ともあり、ふだんからあまり自身を表現することのない斎藤や山崎、相馬、それに問題を投げかけた玉置がおろおろとしていた。
そのとき、どこからか唄声がきこえてきた。美しい高音のそれは、耳朶に入った者の口唇を閉じさせ、それに集中させるだけの不思議な力を備えていた。
「アベマリア」、聖母マリアへの祈祷。この唄は、辰巳のもっとも好きな唄であった。
スタンリー、フランク、スー族の二人にジムとケイトも、このすばらしいまでの歌声にそれぞれの鞍上や馭者台の上でききいっている。
そして、それは無論、日の本の者も同じだった。生まれてはじめてきいた者は、うっとりと、鞍上や馭者台の上できいている。
だが、蝦夷にいた者たちは違った。正確には、伊庭、田村、玉置をのぞいて、だ。その美声を一度きいた者の動揺はひどかった。
「坊・・・」
そして、そのもっともたる者が土方であった。馭者台の上に立ち上がり、それが流れてくるほうをみた。
辰巳は土方から命を受け、蝦夷の五稜郭で、最後の戦の前にその唄声を披露したことがあった。そのとき、やはり大好きな「アベマリア」を唄った。もっとも、そこには違うわけもあった。一緒に戦ってくれていた仏軍の士官たちを、そこから退避させる為、郷愁を誘うための選択でもあったのだ。
辰巳得意の人身掌握の業の一つ、というわけだ。
現在も、一行はすんなりその業の虜となった。
土方は、馭者台から飛び降りた。息子に向かって走りだそうとしたとき、それを察した幼子は唄うのを止めた。それから、自分から四十を向かわせた。
『父上、お止めください。喧嘩は嫌いです。伯父上も父さんも仲良くしてください』
英語で懇願した。
『「The lucky money(幸運の金)」号で子守唄みたいにきかされた唄です』
それはまったくの嘘ではない。乗組員が赤子にきかせたのだ。それが子守唄がわりに、というところが大げさなだけだ。
四十の馬前で、土方は目頭をおさえ、俯いた。それが涙を隠す行為だということを、幼子がわからぬわけもない。息子として、四十から飛び降り、このときばかりは自分から父親の脚に縋りついた。
『父上、申し訳ありません』英語でつい謝っていた。それから、息子らしく『うまかったのならいいのですが・・・』と付け加えた。
『ああ、とってもうまかった』土方は、涙をさっと掌で拭ってから、両の膝を折って息子と目線を合わせた。それから、日の本の言葉で囁いた。
「とてもとてもうまかった。また、唄ってくれ・・・」
それから、力いっぱい抱きしめたのだった。
結局、信江の好みの漢については謎のまま、この騒動は終焉を迎えた。




