みる、そして感じる
四十を間にはさみ、富士と金峰の三頭が併走している。三頭は、自身の呼吸、速度で駆けている。騎手からの指示など必要ない。それぞれが騎手と一身同体である。その意を汲み、添い、駆けてゆく。
そのすぐ前には白き巨狼が、まるで騎馬隊を率いる一軍の将のごとくじつに堂々と駆けている。
その後ろに仲間たちがつづいた。騎馬たちは、やはり富士、金峰、四十と同じようにとくに指示など受けずとも、それぞれがそれぞれの速度で駆けてゆく。やはり同じように、それぞれの騎馬は自身の相棒と気持ちの上でつながっており、指示など受けずとも意に添うことができるのだ。
そして、やはりどの騎馬も、これからいくところがただの遊山でも通りすがりでもないことを、感じていた。
父と伯父を左右にし、幼子は四十の鞍上で瞼を閉じて集中していた。物見にでている朱雀と同調しているのだ。
新撰組の翼ある隊士である朱雀の両の瞳が、赤色に染まった空よりじょじょに低い位置になってゆく。物見は、これで二度目。今度はただの物見ではなかった。
朱雀は、かぎりなく低空飛行を試みた。みつかることは想定している。発砲されればあたる射程範囲内にまで下降している。
空の赤から大地の赤へとかわっていった。そして、土煙。さらには騎馬たちのおこす馬蹄の音を捉え、ついには騎馬たちとその鞍上の騎手たちを小さな両の瞳は捉えた。
危険極まりないこの二度目の飛行について、幼子は真っ向から反対した。撃たれでもしたら、というのが一番の理由だ。だが、朱雀は強硬に物見をすることを主張した。その一人と一羽のいい合いは、永遠につづくかとも思われた。みるにみかねた、きくに耐えかねた土方は、ついに妥協案をだした。そして、それにより、やっと両者を歩み寄らせた。
異変を察知したら、すぐに退避する。それがその案だ。じつに単純明快な案だが、一人と一羽を納得させるだけのきっかけとなる。
朱雀はみる、だけではない。それはもう一度目に終えている。いまは、人間を、騎馬たちを、感じる、のだ。厳密には、朱雀を通して幼子がそれを感じとる、というわけだ。
朱雀は、まず騎兵隊のなかに数人、騎兵隊でない人間がいるのをその瞳に映した。それから、人間や騎馬たちのすべてを、幼子が感じとれるようできるだけ低くゆっくりと飛んだ。
何人かが大鷹が舞っていることに気がつき、鞍上で朱雀を指差した。掌を振って囃し立てる、あるいは讃えるような所作はしたものの、幸運にもだれ一人としてライフルや拳銃を撃ってくるようなことはなかった。
まがりなりにも、規律の整った亜米利加軍の栄光ある騎兵隊だ。命じられもしないのに、どんぱち撃つような愚かな兵はいないのだろう。
朱雀は、感じを幼子に伝えられただろうか?とどきどきしながら、ふたたび大空へ上昇し、そして、そこから去った。
騎兵隊のだれ一人として、自分たちがみた大鷹が、日の本という遠い小さな島国で生まれ育った鷹だと、想像すらしなかっただろう。
そして、まさか日の本原産の大鷹が、同じようにそこで生まれ育った武士たちの物見役だと、かれらどころかかれらの信仰する神様ですら、気がつきやしなかっただろう。