あらゆる心情
み送りにきていなかったはずだ。
ケイトは、馬車の荷台に乗り込みそこに隠れていた。
少女の気配に気がつく者はいなかった。出発後、いつものように周囲を探った際に、幼子とその叔父と白き巨狼が、臭気で感じ取ったのだ。
みつかったケイトは、信江によって馬車から降ろされると、すぐに厳周に駆け寄った。
だれもが驚いたのはいうまでもない。そして、一番驚いたのはやはり厳周だろう。それでも、やさしい厳周は、気の毒な少女と目線を合わせる為両膝を折った。それから、ゆっくりと両の腕を伸ばした。少女を刺激しない為だ。少女は、しばし逡巡していたが、ゆっくりゆっくりと厳周に近寄った。
『おいで』爽やかな笑顔とともにいうと、少女はおずおずと厳周の腕に抱きとめられた。
しっかり抱きしめ、その頭髪に相貌を埋めた。マットの妻が風呂に入れたらしい。石鹸独特のいいにおいが厳周の鼻梁をくすぐった。
その様子を、全員が声もなくただみ護っていた。原田と島田は、はやくも号泣している。全員がこの少女の過酷なまでの人生を知っている。年齢の近い若い方の「三馬鹿」もまた、瞳を潤ませていた。
『ケイト、いけない子だ。マットや農場の人たちが心配するだろう?もう大丈夫。きっと幸せになれる。だから・・・』
『いかないで・・・』弱弱しい声音による懇願。それは、どれほど大音声で叫んだものよりだれの胸にも響いた。
『一人にしないで・・・』厳周の胸のなかで懇願をつづける少女。厳周は知れず腕に力をこめていた。
『ごめん。わたしたちはいかねばならない・・・』『じゃあ連れていって』
厳周の声音が震えた。『だめだよ。送っていくから、ケイト』
「厳周、早く送るのよ」
日の本の言の葉で命じたのは信江だった。信江は、心中で自身を呪っていた。兄と辰巳のことばかりが気になっていた。ケイトのことまで考えが及ばなかった。
あのとき、少女のことを心から案じ、その心情に寄り添ったのがだれか?女の性は、ああいう場面でどういう心境になるのか?
同じ女性として、起こりえる将来をすこしでも想定できていれば・・・。そして、さらに悪いことに、かのじょ自身の甥は心根がやさしい。非力で哀れな異性に頼られればどうなるか・・・。しかもその状況が死んだ従兄に似かよっているとなるとなおさらだ。
「厳周っ!はやくせいっ」
さらなる一喝が飛んだ。それを発したのが厳周の父親であることに、だれもが驚きを禁じえなかった。
「いってきかせろ。われらは遊びにゆくわけではない。そして、すぐに送り届けよ」
「ですが父上・・・」父親の剣幕に厳周は面喰らった。少女の髪から相貌を上げ、反論しようとした。
「厳周、いうことをきいて。わたしたちには時間はないの・・・」
諭す信江。だれもが驚きの表情で厳蕃と信江をみた。それぞれの相貌をみ合わせている者もいる。
永倉と伊庭だ。永倉にとって、厳周はいい好敵手だし、伊庭にとってはいい弟分だ。
それから、二人は同時に視線をかれらからこの漢に移していた。
土方に・・・。
『義兄上、信江、しばし時間を。いつものようにみなで決めるべきです』
毅然と義理の兄と妻に英語で告げる土方をみながら、永倉と伊庭は密かに拳を握りしめ、気合をいれた。
二人は厳周の味方をするのだ。当然のことである。




