忘却
それは、信江自身の兄を肩に担いだ息子、否、甥であった。
すでに甥の方は、叔母と従弟が小屋のうちに入り込んでいることに気が付いていたはずだ。
「辰巳・・・」
信江は甥の二つ名を呟くと、その前に立ちはだかった。すると、甥は立ち止まり、叔父を肩に担いだまま物憂げに叔母をみ上げた。夜目にもシャツやズボン、短く刈り揃えた髪、相貌に血がこびりついているのがわかった。しかも尋常でない付着の仕方である。
「叔母上・・・」甥は、視線とおなじように物憂げに呟いた。
「叔父上を降ろしなさい、辰巳。あなたたちはいったいなにをしていたのです?」
甥はいわれたとおり肩上の叔父を床におろすとその背を廊下の壁に寄りかからせた。それから、その前に力なく座り込んだ。
失血によるものだ、と信江は判断した。すぐに自身も両膝を床につけ、甥と兄の状態をすばやくあらためた。
二人とも左の手首に深い傷がある。それが自傷であることに、信江は気がついた。
甥の心中はよめない。甥は、ケイトの父親を害そうとしたがかろうじて思いとどまり、それを悔やんで自傷行為に及んだに違いない。
兄は?それを誡める為に自ら自身の手首を切り裂いたというのか・・・。
「大丈夫ですよ、叔母上。叔父上は眠っているだけです」また物憂げに告げる甥。
「眠っている?あなたが眠らせたのでしょう、辰巳?暗示をかけ・・・」そこまでいってから、信江は口を噤んだ。み上げる甥の両の瞳から、ぽろぽろと大粒の泪が落ちはじめたからだ。
「叔父上はあなたになにをしたの、辰巳?」刹那、信江は甥によまされた。起こったことの断片をかいまみせられた。
「なんてこと・・・。辰巳・・・」
信江が両の掌を差し伸べようとすると、甥は泪をぽろぽろと落としながら、あからさまな拒絶を示した。
「わたしは穢れた子だ、叔母上。叔母上はそれをわかっていてなにゆえわたしを生んだのです?現世に引き戻したのです?なにゆえ、なにゆえ・・・」
「辰巳、かようなことは二度と申してはなりませぬ。みながそれを望みました。あなたは穢れてなどいません」
もう一度掌を差し伸べると、今度は甥もそれを拒まなかった。信江は、小さな頭部を自身の掌で包み込むとそのまま自身の胸に掻き抱いた。されるがままに叔母の胸に相貌を埋める辰巳。そして、信江は単調な声音で囁きつづけた。
「辰巳、あなたはわたしたち一族にとっても、兄さまたち、壬生狼、そしてあなたの主にとっても大切な存在なのです」
暗示である。信江には辰巳にそれをうまくかける自信は、正直なところなかった。なぜなら、腕は辰巳の方がはるかに上だからた。それでも試してみなければならない。辛すぎる真実を、いくつもの真実を、背負わせたくない。まだしばらくは、いまの関係を持続させてやりたい。母として、あるいは叔母として、それを望むのは当然のことだ。
「叔母上」信江の胸のなかで辰巳が呟いた。じつに苦しげな呻き、である。
「暗示をつづけてください。わたしは、わたしは知りたくなかった。そして、もうこれ以上なにも知りたくない。お願いです。お願いです、叔母上・・・」
信江も泣いた。泪は止まりそうにない。泣きながらつづきを行った。泣きながら真実を封印した。いましばらくの安寧の為に。そして、当たり前のささやかな幸せの為に・・・。
「まったく、愚かな伯父甥だわ!」信江のヒステリーが大音声となって丸太小屋のなかを駆け巡った。
「他人様のお宅で刃傷沙汰とは、呆れかえってものも申せませぬ」
「ならば黙っておいてくれぬか、信江」「母上、母上の声でくらくらします」
血まみれの喧嘩に及んだ兄と息子を前にし、信江の怒りは収まるどころか、ますます大きくなってゆくのだった。




