憂懼
「申し訳ありませぬ、副長」
斎藤は、シャツを鉤爪によって裂かれ、鋭角的な相貌と短く刈り揃えた頭部には、鋭い嘴による突っつき傷をこさえ、土方に近づき囁いた。
「おいおい大丈夫なのか、斎藤?」無論、土方は驚いた。妻と甥の後を追うようこっそり指示したのにこのざまだ。てっきり妻にでもやられたのか、と勘違いしそうになった。
「副長、ちょうどわたしがみていたのですが・・・」
島田は、意識下で斎藤に詫びつつ、さもめずらしいものを目撃しかかのように驚きと可笑しさとが入り混じった表情で報告した。その逞しい肩上で朱雀がすまなさそうな鳥面をしている。
「あのようなことがあるのですな。朱雀が畜舎から鼠を追いたて、一旦、爪でそれをひっかけ飛翔したのですが、鼠が暴れ、その拍子に落っこちました。ちょうどその下を一が歩いていまして・・・」
「で、これ、なのか?」土方は、気の毒そうに自身の懐刀をみた。
「副長、すぐに・・・」「いや、もういい」不幸すぎる事故に見舞われてさえ、任務を続行しようとする生真面目な懐刀を、土方は掌を上げ静止した。
「おめぇは山崎に薬を塗ってもらえ」「ですが副長・・・」
斎藤が了承しかねたが、土方はよほど気になるのか、甘爪を噛みながら農場の奥へと視線を向けている。
斎藤も島田も内心で驚いた。土方のそんな癖など、これまでみたこともなかったからだ。
よほど気になるのだ。ゆえに無意識のうちにでたのであろう。
「いったいどうしたんだ、斎藤?」
永倉がさりげなく近寄ってきた。斎藤をまじまじとみ、ぷっと噴きだしそうになったのを自身の太腿をこっそりつねってやりすごした。
「むこうでマットが呼んでるぞ。だー、もうっ!じれってぇな、副長?いいよ、おれがゆく」
永倉もまた、気になりすぎて苛苛していたのだ。大好きな酒も、ただ喉を焼くばかりでうまくもなんともない。そして、それは一緒にいたほかの馬鹿たちも同じで、原田も藤堂も口にこそださぬが気を揉んでいた。
土方が口唇を開くよりもはやく、永倉はすでに畜舎の方へと歩きはじめている。
「新八、おまえがマットと話をしてくれ。おれがゆく・・・」
ついに土方がいった。その緊迫した声音に、さしもの「がむしん」も歩を止め、振り返ってから両肩を竦めた。反論をさしはさむ余地もない。
「副長、わたしが参りましょう。ほら、ちょうどイスカがやってきた」
島田が畜舎の方向を指差すと、その方向、明かりの届かぬ暗がりから呪術師が現れた。
あまりのいい時機に、島田は系統の違う神に感謝せずにはいられなかった。
呪術師は、自身の白馬霧島、島田のこれもまた白馬の白山、そして、金峰と大雪を曳いている。
『この気のことでしょう?これは大精霊のほうの気の乱れ。激しい喧嘩でもされているのかも。大丈夫、わたしがいって鎮めましょう。カイ、一緒にきていただけますね?』
『もちろん、副長、イスカに任せましょう。気になるでしょうが、あなたはやはり農場主の相手をされるべきだ』
土方はある意味では島田に弱い。ずっと傍にいて、あるときは励まし、あるときは叱咤しはっぱをかけ、愚痴をきいてもらったり悩みをきいてもらったり、とその存在感はとてつもなく大きかった。それはいまでも同じこと。土方にとって、島田はただそこにいてくれるだけで落ち着き冷静でいられる、かけがえのない存在なのだ。島田がいてくれるからこそ、「鬼の副長」としてみなを引っ張ってゆけるのだ。
自身の二刀とは違った意味で、必要不可欠な存在だ。
『わかった。イスカ、どうか頼む。どうにもたまらぬ・・・』
『お任せを』
そして、島田とイスカは騎乗の人となった。
『よくわかったな?驚いたよ』
馬たちを駆けさせながら島田はイスカに微笑した。真っ暗な農場を、馬たちはなんの迷いもなく駆けてゆく。
『いいえ、事態は深刻です。狼の大精霊がすぐにきてくれ、と。カイ、あなたを連れて。そう思念を送ってきました。よほどのことに違いない。それに、これは大精霊とはまったく関係がないようです。わたしにはなにも感じられない。つまり、人間としての問題、というわけです』
説明され、島田は歯噛みした。
なにかあれば、副長はどうなってしまうだろう?
内心の焦燥を嘲笑うかのように眼前には暗闇が横たわっていた。




