いのしえの気息
「現実をよくみよ、辰巳」声音は上擦り、掠れた。耳朶に囁くそれは、下腹部の疼きとともにますます熱くなってゆく。
「おまえが人間を傷つけ殺める元凶がなにか?それが最初の蝦夷での大量殺戮でないことくらいわかっておるはずだ。生まれてすぐに捨てられたことでも、金色の瞳の所為でも、人間として認められなかったことでもない。ましてやうちなるものなども、な」
熱い吐息は地獄の劫火となって耳朶に侵入しているだろう。厳蕃はそれがいまからすることへの前戯とばかりに執拗につづけた。
「屋内で眠れぬのだろう、えっ?夜半、怖くて家屋のうちで眠れぬのだろう?他人の息遣いが怖ろしいのであろう?」
厳蕃は気がついていた。昔、尾張を訪れて柳生邸に泊まった際、辰巳は厳蕃と同じ部屋で眠るはずだった、すくなくとも同じ部屋で枕を並べたはずだった。あらゆる意味で若かった厳蕃は、やはりあらゆる意味で寝つけなかった。だが、眠った振りをした。すると、厳蕃の呼吸が深くなってしばらくすると、辰巳はそっと部屋を抜けだしたのだ。枕が合わず夜風にでも辺りに行ったのかと思った。だが、戻ってこなかった。
そして京では、辰巳が自身の左瞳を喰らい、傷ついた後に、療養の為に信江が土方から預かったことがあった。だが、昼間は疋田家の敷地内にある道場にこもり、夜半はあてがわれた亡き従弟の部屋どころか家屋のうちにすらとどまらず、毎夜、家を抜けだしていたという。
さらには、土方をはじめとした仲間たちは揃って辰巳とおなじ部屋で眠ったことがないという。夜半はたいていいなかったという。何年もともに寝起きをしているはずなのに、だ。
転生後も同じだ。まだ、はいはいの時期は別とし、辰巳そのものが現れた時分より夜半、父母とすら同じ部屋にいることが辛そうだった。ゆえにさりげなく鍛錬という名目のもと、あるいは、馬を見張るという大義名分のもと、野宿させた。
それらは、辰巳の習慣と同じなのだ。辰巳は自身に対してすら鍛錬という大義名分を振り翳し、夜半は外で過ごした。これらはすべて無意識のうちに行っていた。
すべてはたった一つのことが起因している。辰巳はそれが怖ろしかった。どんなことよりも。ゆえに、なににもおいて忌避したがった。そして、そのたった一つのことが辰巳自身の人生を狂わせた。心身を苛み破壊し、ついには破滅させた。
たった一つ、理不尽なる暴力によって・・・。幾度生まれかわろうと、どれだけ過ごそうと、辰己であるかぎり、それは辰己を犯しつづけるのだ。
「はじまったのはちょうどいまぐらいの年齢であろう?なれば、わたしがかわってしてもいいわけだ。師とは名ばかりの爺より、わたしの方が若く、なにより血が濃い」
自身、その不可解な理屈がおかしかった。淫猥な笑声をもらしつつ、握っている壜の欠片で、切り裂かれた小さな手首を握る自身の手首を切り裂いた。
自身の血でこびりついた辰己の二の腕を自身の手首から流れ落ちる血が染めなおしてゆくのを、しばしうっとりと眺めた。
「瞼を開け、よくみよ辰己。同じ血だ。同じ血が融合しているではないか?」いまや性欲と暴力で興奮しきっていた。気がつくと、辰己の瞼がいつの間にか開いていて、それを物憂げに眺めていた。その潤んだ瞳はじつに官能的だ。そして、それは自身の瞳に、甥でない者をはっきりと映しださせていた。
「わたしは・・・」あらゆることに怯え、慄いた辰己の声音は、この静かな納戸のうちでですら耳朶をよくすまさないときこえぬほど小さかった。
「わたしはいったいなんなのです?あなたはなにをみているのです?」
妖艶ともいえる瞳が自身をじっとみていた。
その瞳の奥に愛する者をみ、同時に感じた。なにも考えられぬまま小さな体躯をわが方へと向かせた。それから抱きしめた。瞳をみつめたまま相貌をちかづけてゆく。
そして、愛する者の口唇を自身の口唇でふさいだ。




