侵入
畜舎でこの農場の馬数頭からある話をきかされた。そして、馬たちがいうとおり、たしかに負の感情、つまり恐怖と悲しみの双方を感じとることができた。
畜舎からそっと伺っていると、その話にでてきた漢が一人、まだ焼き物の途中だというのにそっと抜けだし、歩き去るのがみえた。
だからその後をつけた。すると漢は、かなりの距離を歩いた後、農場のどのあたりかはわからないが、敷地内に建つこじんまりとした丸太小屋のなかへと入っていった。
そっと近寄ると、まずは小屋の様子を確かめた。部屋の数、なかにいる人間の数。
それから裏口へとまわった。戸に鍵はかかっていない。そもそもそれをかける必要もないのだろう。扉をそっと開けた。台所だった。真っ暗だ。だが、開け放たれた扉と、窓から射し込む月の光で充分だ。十二分になかの様子がうかがえた。
不法侵入者である。裏口の扉を開けたときと同じように、それをそっと閉めた。それから台所の扉をすこしだけ開けた。蝶番の軋む音が、静まり返った部屋のうちにやけに大きく響いた。聴覚が他者よりはるかにすぐれているので、どんなささいな音でもおおきすぎるほどに耳朶に響くのである。そして、臭覚もまた他者よりすぐれているので、屋内に汚物や食べ物の腐った臭いに満ちているのを感じた。同時に、このなかにはあらゆる負が渦巻いていることを、他者にはない感覚でもってはっきりと認識していた。
わずかに開いた扉の隙間から、音も気配もさせず廊下にでた。そのまま玄関の方向へと進んだ。
小さな歩幅で三十歩ほどいったところで、その歩みを止めた。
玄関に近い部屋の扉がわずかに開いていて、そこから一筋の光が漏れでている。そして、すすり泣く人間の声も・・・。その高さや抑揚から、泣いているのがまだ子ども、少女であることがわかった。
その部屋に近寄り、扉の隙間から視力のある方の瞳でのぞきこんだ。
蝋燭の淡い光のなか、寝台の上に裸の漢がいて、こちらに背を向けていた。つけてきた漢だ。
『ごめんなさい、父さん・・・』寝台の上にだれかが横たわっていて、漢はそれに覆いかぶさっているようだった。
『許して父さん、止めて・・・』少女の声だ。じつに弱弱しい懇願が耳朶に入った刹那、鼓動が急激に早くなり、眩暈がした。廊下の冷たい床板に両の脚がいまにもくず折れそうになる。実際、扉框を掌で掴んで小さな体躯を支えねばならなかった。あのときの情景が、脳裏を満たし精神を侵す。鼓動のはやまりとともに呼吸も早くなる。ここからすぐにでも逃げだしたかった。このままだと抑制ができなるかもしれない。それは、うちなるもののときとは違う。自身の精神と感情の抑制である。一旦、その均衡が破られ迸りでもすれば、とり返しのつかないことになるだろう。人間ではなくなってしまう。本来の意味での人間ではなく、一匹の獣へと落ちてしまう。一方で激情の嵐に身を委ねたいという欲求もあった。憤怒という名の大嵐だ。すべてを破壊してやりたいとも思った。
眼前の父娘ともどもに・・・。
泪が頬を伝い床に一滴二滴と落ちてゆく。
殺してしまえ、愚かな人間だ。あれこそがまさしく獣だ。おまえの名ばかりの父親と師と同じだ。喰らい尽くせ、魂までも滅してしまえ・・・。
肩がゆっくりと上下する。なけなしの正気を保つよう集中せねばならなかった。それでも誘惑が呪詛となって心身に囁きつづける。
そして意識はとおのいていった。