「狼がきたぞー」
町、というよりかはいくつかの農場が点在している村であった。それでも中心には教会や雑貨屋、小さな宿屋や酒場などがあった。
ニックの農場の敷地よりも広大な農場が点在しているようだ。柵が設けられ、そのうちには牛や馬が放牧されている。
人間のほうが家畜よりはるかにすくないのだろう。一行がこうして道を進んでいても人間の姿をみることはなかった。
「それにしてもでかい農場だな。管理するのが大変そうだ」
馭者台で現実的な心配をする山崎の横で、玉置が歓喜の声をあげた。
「うわー、仔馬に仔牛だ。可愛いな」
そこかしこに仔馬や仔牛が母親と一緒に道をゆく一行をみつめている。
「おいおい、いつもだったら馬車の荷台でのんべんだらりと惰眠を貪っておるのになにゆえはりきって歩いておる、子犬ちゃん?」
厳蕃の指摘はもっともだ。いつもであったら、なんだかんだと理由をつけては荷馬車に乗りこみうとうとしている白き巨狼が、この日にかぎって地面に降り立ち軽快に歩んでいる。
「どうせホットチョコレートにありつけるとでも思うておるのだろう」
厳蕃がつづけざまにいうのもかまわず、白き巨狼は跳ねまわりしながら大きな口唇を開いた。
『本日は気候もよく、わたしの気分もじつに爽快だ。童どもに一つ寓話をきかせてやろう』
「ぐうわ?それってなに?」市村の呟きは、全員が無視した。
『むかし、あるところに羊飼いの童がおった。毎日毎日、たくさんの羊を見張るだけの面白くない日々を過ごしていた。ある日、童は面白い遊びを思いついた。羊を放牧している山の裾野から村まで「狼がきたぞーっ!狼がくるぞーっ!」と叫びながら走ったのだ。村人たちは驚いた。童に預けている羊たちが食べられることを怖れた。村の男たちは鍬やら鋤やらを掌に家を飛びだし、放牧場に駆けていった。するとどうだ、羊たちはのんびり草を食み、とくにかわったところはない。狼どころか羊以外の動物の姿はない。そのとき、童の笑い声がした。童は腹を抱えて笑った。大人たちの慌てふためく姿が心底可笑しかったのだ。大人たちは腹を立て、童を叱り、それから村に戻っていった。童はそれに味をしめた。いい暇潰しができたと思った。そして、その次の日もそのまた次の日も「狼がきたぞーっ!狼がくるぞーっ!」といっては村人たちを驚かせ慌てる様をみて笑った』
思念に混じり、ときおり「モー」やら「ヒヒン」やら牛馬ののんびりした鳴き声が微風とともに流れてくる。じつにのどかな風景だ。全員が白き巨狼の思念にききいっていた。
『ある日、この日も村人を驚かしてやろうと童ははりきっていた。だが、この日はどうも様子が違った。羊たちが怯えているのに童は気がついたのだ。そして童はみた。すこし離れた岩陰にそれ、それはおおきなおおきな狼がこちらをうかがっているのを。童と狼の視線があった。すると狼はおおきなおおきな口を開け、おおきなおおきな舌で舌なめずりをした。ちょうどこのようにな』
先頭を歩む白き巨狼は歩みを止めるとくるりと振り返り、それはそれは大きな舌をだすとそれで口唇をなめた。
幾人かが呻き、違う幾人かは息を呑んだ。
『童は驚いた。そして、「狼がきたぞーっ!狼がくるぞーっ!」と叫びながら村まで全速力で駆けた。それを狼は追いかけた。叫びながら逃げる童、そして、それを追う狼。村人たちは童の叫びをきいた。が、「また嘘をついている」「けしからんやつだ」「ほおっておけ、馬鹿馬鹿しい」といつものことだとその叫びを一切無視した。この日、一人の村人も家からでてこなかった。童の叫びにだれも耳朶を傾けることはなかった・・・』
そこで思念が途切れた。
「その童はどうなったの、壬生狼?」おそるおそる尋ねる玉置。
『それぞれが想像してみるがよかろう?そして、この寓話から学ぶがよい。教訓を知り、糧とせよ』
白き巨狼の黒い双眸の先に育ての子がいた。あの競馬以降、幼子は四十に騎乗している。このときも四十の鞍上で育ての親の寓話をきいていた。
無論、この話の内容、さまざまな結末、そして教訓を、幼子、否辰巳はよくわかっている。それが育ての親が自身に対する教訓であるということも含めて。
『えらくたくさんの馬を連れているな?売りにゆくのかね』
そのとき柵の内側から人間の声がした。騎馬に跨った二人の漢が一行をみている。テンガロンハットに乗馬靴、ベストにシャツにズボンという格好だ。
刹那、白き巨狼はそちらのほうに向き直ると「ワンワン」と吼え、ふさふさの尻尾を左右に盛大に振った。
それは、どこからどうみても愛想のいい犬だった。