メロメロにしてしまえ!
『一人五回っ』『なにをいってるんだ、鉄っ!』
相馬の市村への指導は競馬開始直前までつづく。その横では第一試合の賭けを、胴元である原田がせっせと募っている。なんと、第一レースに出走する騎手にまで声をかけているところが原田らしい。
第一レースの一番人気は金峰だ。ほかの騎手がすでに鞍上にあるにもかかわらず、厳蕃は馬首の前に立つと両の掌で相棒の長い鼻面を包み、互いに額を寄せ合った。ぶつぶつとなにごとかを呟いている厳蕃に、原田は走り寄って声高に文句をいった。
『神様よ、それもなしだっ!』英語によるそれは、頭上にあるふわふわした雲にまで届きそうだった。
『神様方、否、柳生の暗示は阿片みたいなもんだっ!』
『それはたしかに頂けないな。欧州の競馬で馬に薬物を使って興奮状態で走らせたって、えらい騒動になったことがあるらしい』
「The lucky money(幸運の金)」号に乗船していた水夫か、用心棒仲間にきいたのだろう。二の鞍上でスタンリーが眉を潜めた。
『失礼なことを申すでないっ!これのどこが阿片だっ!』賭け事となると、それに目覚めたばかりの神様の一人は冷静さをどこかに置き忘れてしまったようだ。
『わたしはただ相棒に頑張ろうな、と声をかけていただけだ』
『それが暗示だって・・・』『伯父上の嘘つきっ!』原田の反論にかぶせ、それどころかそれを掻き消すほどの甲高い声で幼子が糾弾した。
『金峰、おまえの脚は最高だ。その美しい脚でほかの馬をメロメロにしてしまえ』
『まあっっっ、いやらしいっ!!』
糾弾した幼子の母が叫んだ。
あらゆる意味でだれもが驚き、同時に想像をたくましくしてしまった。
『なんだと坊っ!おまえまで性悪の甥なのかっ!えっ、おまえまで性悪なのかっ?』
厳蕃は激昂し、金峰にひらりと飛び乗った。小柄さを補うためであるかのように、鞍上にあって大音声で宣言した。
『違うっ!美しいというのは暗喩だ、暗喩っ!』『すごいですね、神様?そうやって女子をメロメロにするんだ?』にやにや笑いの沖田がいった。沖田は自身の天城で出走する。
『違うっ!』またしても頭ごなしに否定する大人げない神様。
『女子をメロメロにする際にはずばり直喩を使う。暗喩では理解してくれぬときがある』
そう叫んではっと口を噤む神様。
『・・・。父上、もはや突っ込む気力も方法もありませぬ。不甲斐ない息子を許して頂きたい』
神様の実子が悲しげに呟いた。その相棒の大雪が鼻面を厳周に押しつけ慰めている。
『兎に角、審判よ、はやく開始せよっ!』神様は審判役の島田に怒鳴ってからわが子へ非情な命を下した。
『息子よっ、父が戻ってくるまでにうまくおさめておけ、よいな?とくに性悪になりつつあるおまえの従弟には、頬っぺたをつねってでも口のきき方を教えてやれ。それと、その母親には這い蹲ってでも父が助平でないことを証明しろ、よいな?』
『ええっ!そ、そんな・・・』
『スタートっ!』島田がお手製の旗を振った。誠と記された、いわずとしれた新撰組の隊旗だ。
十一頭がいっせいに走りだした。
『そんな無体な・・・』十一頭のとそれらが巻き起こす土煙をみつつ、途方に暮れる神様の息子。
そして、『ねぇねぇ暗喩ってなに?直喩ってなに?で、おれは六頭乗ればいいんだよね、主計兄?』とあいかわらずの市村。
馬たちは約一里(約4km)を駆けるのだ。
頭上では、朱雀が競馬を上空から眺めている。