鎖鎌対刀
鉄鎖はただ単純に振り回されているわけではない。それはまるで蛇だ。蛇が獲物を狙うかのごとく相対するもの隙を伺っている。
相手は刃を寝かせ、攻撃を誘っていた。夜の静寂に「ひゅんひゅん」と鉄鎖が回転する音だけが響く。
小さな体躯がゆっくりと動いてゆく。間合いはどうでもいい。近間だろうが遠間だろうが、鉄鎖術の前にそれは無意味だからだ。
相対するものに動きはない。相手の動きを瞳ではなくそれも含めたすべてで感じるだけだ。
小さな相貌に不敵な笑みが浮かんだ。篝火のなか、それはやけに現実的に浮かび上がった。
小さな左掌に握られた鎌がそうとはわからぬほどの動きがあった。あきらかに誘いだ。相対する者はそれにわざとのった。
乗馬用の長靴が音もなく地面を滑る。まるで道場の床を摺り足しているかのように動きは滑らかだ。その間に徳川家禁忌の「村正」が遣い手の頭上より高く上がった。そしてまだ遠間にある距離から鋭く強い一撃が放たれた。
「示現流の初太刀」、新撰組局長であり天然理心流四代目宗家近藤勇がもっとも畏れた一撃。それがいま、小さな体躯を襲った。
すでにわかっていた。鉄鎖の動きがかわった。回転から前方、上段から放たれた剣筋へと。小さな掌は鉄の蛇を自在に操った。自身の掌よりも自由にまた、華麗に遣いこなした。伸びた鉄鎖が不意に弧を描いた。それはきれいな放物線が篝火のうちに浮かび上がった。
「村正」の切っ先は小さな相手の眉間に目標を定め、それへと伸びてゆく。示現流から突きへの複合業。こんな複雑な業を遣える剣士はそうはいない。古今東西を含めて、だ。
鉄鎖という名の蛇は、「村正」という名の虎の牙に絡みついた。動きを奪われた虎は無駄な抵抗をせぬままあっさりと宙に解き放たれた。そして、その遣い手は虎よりもはるかに狡猾ですばやい。後方回転で鎌から遠ざかる。その先には夜空に向けて蛇の舌のごとく小さな篝火がちろちろと上がっている。
遣い手から開放された「村正」が蛇に絡みつかれたまま宙を舞い、小さな掌に収まった。刹那、炎の塊がその小さな体躯に向かって飛来した。
刹那以下の間小さな相手は恐怖に凍りついただろう。それからその火の塊は鎌によって叩き落された。
間髪いれず、一足飛びに間合いを詰める小さな体躯。右の掌には蛇のごとき鉄鎖を絡みつかせたままの「村正」が、左の掌には鎌が、それぞれ握られている。この種類の違う得物を小さな体躯は容易に連携させ遣いこなせることを、いまや無手となった相手は知悉していた。
「それまでです、勇景」
すでに自身の近間にまで入り込み、二つの牙と爪とを振るう準備が整っていた小さな体躯。鋭い制止とともにその小さな体躯が宙に引き上げられた。
「兄上も、もう充分でございましょう?」
自身の息子の襟首を右掌一本で地から引き上げ、左の掌は拳にして自身の左腰に当て、信江は実の兄と向き合った。
宙ずりにされた息子はしばらくの間両の脚をじたばたと動かし抵抗していた。だが、じきに諦めたのかおとなしくなった。
実子も実兄もその気配には気がついてはいた。だが、止められなかったのだ。両者の間の暗黙の了解と精神がこの鍛錬の中断をよしとしないのだ。
「鍛錬にしてはむきになりすぎです。兄上、おとなげありませぬ。それに辰巳、あなたも本気になりすぎです」
漢たちは戦慄した。近寄る気配しかしなかった。いかに厳蕃に気をとられていたとはいえ、辰巳の背後を取ったばかりかその襟首を引っ掴んで動きを封じたのだ。
ひそかに交わされる甥と叔父の視線・・・。
「異常はなさそうですわね?お茶をお持ちしました。さっ、お茶にしましょう」
子は地に下ろされた。それから何事もなかったように富士の鞍にぶら下げられている皮袋からお茶道具を取り出しはじめた。
その様子を声もなくただ呆然とみ護る信江の兄と子・・・。
この夜、信江の兄と子は見張りをしていたはずだった。そのはずだったのだ・・・。