餓えし狼の群れ
怪しげな小型船が近寄ってきていることは相手も承知していたらしい。相手の右舷側に小型船を寄せていたが、その頭上に三人の漢が現れたのだ。三人とも銃を持っており、慣れたものですでに射撃態勢に入っている。
厳藩は縄を半分以上上っており、土方が次につづこうとちょうど縄に手を掛けたところだ。
「主計っ!」
感覚の鋭い相馬は頭上に敵が現れることを予測していた。相棒の野村に促されるまでもなく、すでにスペンサー・ライフルを構えている。
相馬もまた銃においては山崎にひけをとらない。剣と槍は唯心一刀流をよく遣い、体術においてもそこそこ遣えるだけの技量を有している。銃もまた同様で動体視力がいいので動くものを撃つのがとくにうまい。いまは試せないが、騎馬を走らせながらの射撃でそこそこの腕前を発揮するだろう。そして、相馬は兵法にも明るい。なんでもこなせる器用さに加え、その性質がすこぶるいい。よって、若いながらも箱館で土方亡き後の新撰組を任されたのだ。
「ぱんっ!」小型船内部の緊張を孕んだ空気が弾けた。その瞬間、「ぎゃっ!」とはるか頭上のからくぐもった悲鳴が落ちてきた。
その直後に二つ目の悲鳴。これは、跳躍した白き巨獣がその前脚で三人のうちの一人の漢の頭部を蹴ったのだ。蹴った側はそのまま敵船の甲板に優雅に降り立つ。
驚愕する間もない。三人目はこれまた突然現れた異装の漢に蹴り倒された。
厳蕃だ。この和装の小柄な剣士は、縄を握る腕一本の力だけでおおよそ四間(約七メートル)はあろうかと思われる高さを跳躍したのだ。そして、厳蕃もまた甲板上に華麗に飛び降りた。
この船の連中が集まってくるのを油断なくみつつ、下から仲間が上ってくるのを助ける。最後の相馬に到っては、相馬ごとやはり腕一本で縄を引き上げてしまう。
驚天動地、とはこのことか。これまであまたの危機はあれどこの商船に獲物が乗り込んできたことなど一度たりともなかったからだ。たった一度、亜米利加海軍が乗り込んできたのは、あくまでも「怪しげな商船」を取り調べる為、だった。
この「The rising sun(朝日)」号のキャプテンは、側でいい訳を並べ立てる見張り役を無言のまま殴り飛ばした。すぐにでも鮫の餌食にしてやりたかったが、それはこれを片付けてからでも遅くはない。
船首近くに現れたその集団は、これまで相対したすべての相手とまったく違った。
黄色い肌、腰の細長い得物。一人はみたこともない衣裳をまとっている。そして、大型の犬。しかもその犬は赤ん坊を銜えているではないか・・・。いや、犬じゃない。狼だ。
キャプテン・バロンはそれを故国でみたことがあった。冬の森だった。その偉大な森の王者は、逃走兵である自身を森の高台から睥睨していた。人間をみて逃げるわけではなく、かといって襲ってくるわけでもない。たった一頭の大型の森林狼。灰色の体毛にまとわりつく雪が陽光を反射してきらきら光っていた。
狼は知っていたのだ。自身が負け犬であったことを。怖れるに足りぬ敗残者であることを・・・。
本物の狼はともかく、黄色い肌をした人間もまた、そのまとう気は獣を感じさせる。それ以上に、その眼は狼そのものだ。
「狼・・・」無意識のうちに呟いていた。その瞬間、みたことのない衣裳をまとった、それどころか得体の知れない獣の気をまとった小柄な漢が喋りかけてきた。
『わが名は柳生厳蕃。われわれは遠き異国の武士である』
キャプテン・バロンの唾棄すべきことの一つに「驚かされること」がある。この眼前の小男どもは、その禁忌をいくつも犯している。いまも喋りかけられた言語が彼自身の故国のものであったことにおおいに驚いていた。無論、その紳士面にはおくびにもださなかったが。
『独逸の者であろう?』沈黙するキャプテン・バロンに再び独逸語で問う。
そうか、狼という呟きがきこえたに違いない。
『小人、英語で結構だ』わざと英語で返す。『小人ではなく?』独逸語で返される。そして、異装の小男は不敵な笑みをその秀麗な相貌に浮べた。
その微妙なやり取りの間、驚きを禁じえなかったのは土方たちも同じだ。「The lucky money(幸運の金)」号の乗組員に厳蕃が話している言語を使う者がいなかったからだ。だが、独逸と聴き取れただけでも、土方たちの耳朶も異国の言語に馴染みつつあるのだろう。
『昔の依代の記憶と、相手が心中で考えている独逸語を瞬時に解しているのだ。あの子と同じ血筋だからな。然もありなんだ』
白き巨獣の思念だ。
あいつは日の本を去り、二十年近く子どもの姿形のまま異国を武者修行して回った。その為、訪れた国の言語はすべて身につけていた。だが、厳蕃は違う。ずっと日の本にいた。壬生狼がいうほど簡単に話せるものなのか?柳生の血筋とうちなるものの力の融合は、言語など息をするのと同じように扱えるのか?
仲間たちが内心でさまざまな憶測をしている中、雲一つない青い空に一つの点が現れ、あっという間にその点はすぐ頭上に迫った。
この日もじつに穏やかな日で、カリブ海におけるこのような一幕は瑣末な日常の一頁にも値しないだろう。
熱い空気を斬り裂き、異装の小男の肩に舞い降りたのは一羽の大鷹。
『ニックたちはうまくやってくれたようだ』しばし大空の王者と無言のやり取りした後、厳蕃は仲間たちに告げた。この場にいる全員がわかるよう英語で。
「義弟よ、おぬしの「千子」を貸してくれ。おぬしもよくみ、感じてくれ。疋田の技を、そしてあの子自身を」
義兄に囁かれ、義兄弟はすばやくそれぞれの得物を交換し、佩き直した。左腰で徳川将軍家禁忌の妖刀がずしりと重く感じられる。土方はふとそれを抜き放ちたい衝動に駆られた。が、自身にこの妖刀が扱えるのか、という疑念もある
「利三郎、しかとみておけ。そして、あのときにあったことがおぬしの精神を蝕んでいるのなら、ここでそれを断たねば二度と克服できぬと心せよ。あの子が示したものを感じてくれ、よいな?」
背後に立つ野村にふわりと笑ってみせ、改めてこの船の乗組員たちに向き直る。その視線の先に立派な大砲がみえる。それが売り物でない限り、商船に積んでいるはずのないもの。しかも、その大砲はずいぶんとその位置で使い込まれているようだ。いまもすぐその傍に砲弾が準備されている。まるでいますぐにでもなにかを撃とうとしているかのようだ。
「歳、封印を解く間時間稼ぎを。気を開放する。みな、当てられるなよ。わが甥よ、おまえもしかとみているがよい」
ゆっくりと船の中心部に向かって歩き出す柳生の剣士。その小柄な背は、まさしく見慣れた小さな背と同じだ。
赤子の無邪気な笑い声がその小ぶりの背にあたる。まるでその背を押すかのように・・・。




