南部からやってきた漢(おとこ)ジム
枝が邪魔をし星の光も届かぬ森のなか、夜の闇より濃い肌の色をもつ一人の漢が歩いていた。その漢はここらで生まれ育ったわけではなく、もっと南の地域で生まれ育った。漢の親やそのまた親と同じように、漢もまたもとは家畜であった。いや、家畜よりも蔑まれその扱いはさらに悲惨だった。
漢の祖先は遠い異国の地より白人たちによって連れてこられた。奴隷という肩書は、漢たちにとっては物以下を意味する。肌の色が褐色あるいは黒色であることが漢の祖先や漢自身が人間であること、そして生そのものを拒否し否定する。
あの戦争ですべてがかわった。生まれてからずっと白人の農場で働いていた。気がつけば身一つで放りだされていた。住むところも食べるものもない。持って生まれた怪力とぼろぼろのシャツにズボンだけが漢の全財産である。
流れ流れて南から歩きつづけた。川の水にあたって腹をくだし、木の実を齧って歯が欠け、肉欲しさにスカンクに近づいて強烈な臭気を浴びせられた。
北部の町や村にいきあたると、そこでどんな仕事でもありつけたら幸運だった。だが、ほとんどが玄関あるいは店先で罵倒されたり蹴っ飛ばされた。
北部も南部も同じだと知った。奴隷仲間からは北部が南部の奴隷制度から自分たちを自由にしてくれるということをきいた。だが、実際はいい迷惑なだけだった。すべてを奪っただけだからだ。そしてさらに、その北部でも白人の自分たちに向ける視線や態度はまったく同じだ。
白人は白人、自分たちは自分たち。どこに住んでいようとそれぞれの根本は同じなのだ。
こんなことなら北部はなにもしなかったらよかったのだ。そっとしておいてくれたらよかったのだ。いくら鞭打たれようが、こき使われようが、すくなくとも夜露は凌げるし、一食二食抜かれることはあっても死ぬほど飢えることはない。希望も未来もなかっても、その日の糧と寝床があればそれだけでいいのだ。こんな願いも自分たちはできないのだろうか?
ああ、南部に、昔に戻りたい・・・。
あてもなにもなく森を歩いていてその騒がしさに気がついた。南部にいた時分も夜間に燈火などなかった。だから夜目がきく。実際、いまもこの暗い森のなかでも歩くのにまったく不自由はなかった。
その騒ぎはどうやら数人が喋っているようだが、漢がきいたこともない言葉だった。南部と北部、白人と自分たちでは発音が違うし単語じたいも違う場合がある。ところがきこえてくるそれはまったく異種のものだ。
『あなたは何者です?』
背後から囁かれ、漢は文字通り飛び上るほど驚いた。振り返ったがだれもいない。
『ここですよ』そして漢はさらに驚いた。足許に小さな子どもがいてみ上げている。
『失礼、わたしはイサカゲ、あなたは?』
暗くてもその子どもはにっこり笑っているのがわかった。
『ジム・・・』漢はもごもごと答えた。
『小父さん、はじめまして』
子どもはさらに笑顔になって右の掌を差し出した。漢はその小さな掌をしばしみつめていたが、意を決したようにおずおずと自身の大きな掌を差し出した。
大きな大きな掌が小さな小さな掌を包む。それがとても温かくて力強いことに漢は驚いた。
この夜の森での出会いが、まさか漢自身の運命をかえ、希望を与え、将来へと繋げることとなるとは漢は思いもよらなかった。
この夜はこの十数年後に出来るニグロ・リーグで活躍することとなる名捕手であり名打撃手誕生の記念すべき夜であった。




