男親と息子
「厳周、おまえのほうは大丈夫か?」
馬車の天井から眼前の甥へと視線を戻すと、土方は甥に尋ね返した。その声量は土道を疾駆する馬車の轍の音にかき消されるほど抑えられていた。
「ええ大丈夫です、叔父上。船上でのようなことは二度と致しませぬ。二度とあなたや父を失望させるようなことは致しませぬ」
甥は叔父の瞳をしっかりとみつめたまま返答した。その表情にも声音にもゆるぎない決意のほどが伺える。
土方は背もたれに預けていた背を起こすと、腕を伸ばして対面に座す甥の頭を頭髪がくしゃくしゃになるのもかまわず撫でた。
「叔父上、わたしは童ではありませぬ」照れ臭そうに呟きつつも甥はどこか嬉しそうだ。
その甥の反応に接しつつ土方は複雑な思いを抱いていた。大人の厳周でもこういう接触を嫌がりはしない。おそらく父厳蕃は息子の頭を撫でるようなことはしなかっただろう。それはなにも厳蕃が子に対して愛情がうすいわけでも表現が貧弱なわけでもない。
武家であり柳生新陰流という流派の当主と嫡男という古いしきたりや矜持がそれをよしとしないからだ。
だが、土方自身と息子は違う。しきたりに従う必要などないしましてや武家でもなんでもない。そう、市井の子らや亜米利加の親子のように日常茶飯事に抱擁したり接吻したりすることなどなんでもないはずだ。
とくに母親へのあの照れ具合はどこからどうみても親類か知り合いと接しているかのようだ。
まさしく叔母甥の関係のような・・・。
こじつけだろうか?望むあまり、みているものを曲解しているのだろうか?
土方がもんもんと思考している間、厳蕃もまた複雑な思いでその様子をみていた。
自身の息子に対する表現、そして甥へのそれ、さらには甥の甥自身の父母に対する表現について・・・。
甥、つまり辰巳はあまりにも肉親の情を知らなさすぎる。その機会がほとんどなかったからだ。演じさせればなにごともそつなく表現できるにもかかわらず、なにゆえ自身の表現はあれだけ不器用になれるのか。
厳蕃自身も父母に対して甘え上手ではなかった。武家の子弟とはえてしてそのようなものだ。とくに男子であればなおさらだ。女子であってすら、すくなくとも厳蕃の姉と妹は気も辛抱も強すぎ、両親に甘えているところをみた記憶があまりない。それをするときはきまって頼みごとがあるときだ。
「父上、父上・・・」はっとした。息子が何度も呼びかけていたようだ。斜め向かいから義弟もみつめていた。
「厳周、すまぬ・・・。息子よ、あまり気負うな。意識しすぎるでない」
厳蕃はこのとき、この機で息子の頭を撫でるべきなのだ、と考えたがなにゆえか腕も掌も動かなかった。
若い方の「三馬鹿」には躊躇も抵抗もなく自然にできたものを、なにゆえみずからの息子にできぬのか・・・。
甥のことはいえぬらしい・・・。
しれず自虐めいた笑みが口の端に浮かんでいた。
「どうやら動きがあったようですよ」
島田がいった。
「隠れ家を出発したよっ!」
馬車の屋根上から幼子の甲高い声音が馬車内へと漂ってきたのだった。