接吻(キス)と抱擁
修繕された四頭立ての駅馬車は曳き馬の大山と曳き馬をしていたこともある岩手、それにフランクの蔵王と島田のどっしりおっとりしている白山がを曳いた。白山はその名のとおりの白馬だ。駅馬車らしくみえるよう替え馬として馬車の後ろに富士、金峰、大雪の三頭が繋がれている。
「あなた、くれぐれも気をつけて」宿屋を出発する際、信江は土方の頬に接吻をして囁いた。出発の準備で忙しくしているであろうなか、だれの視線も感じられなかったからだ。厳密には夫妻の子以外の視線だ。
土方はいまだに照れ臭い。日の本では接吻じたいが愛情表現のなかでもさほど重んじられていないところにもってきてもともと自身からもそう頻繁に求めたりすることがなかった。相手からされるとどうしても羞恥してしまう。
足許をみ下ろすと自身らの息子があらぬ方向を必死にみつめている。それはなにも子に備わった特殊な力によってなにかを感じているからではなく、あきらかにみぬ振りをしているようなそんな違和感が漂っていた。
土方は京でのことが脳裏をよぎった。信江と死んだ坊が叔母甥の関係だとわかった後、そう、あの戦がはじまる直前にわずかな時間を作って信江に会いにいったことがあった。その際、疋田家の玄関先であるにもかかわらずたまらず信江の口唇に口付けしてしまった。外で控えていた坊はその気配がわかったのだろう。じつに気恥ずかしげに暇乞いをしてきたのだ。
いまの息子と同じように・・・。否、息子があのときの坊と同じように気恥ずかしげにしている・・・。
「あなた?」「ああ、すまぬ」信江が夫の心中の機微に気がつかぬわけはない。
「気をつける、というのはおれ自身のことか?それとも息子のこと?ああ、賊どものことかな?」
「まぁ・・・」信江は片方の掌を口にあててころころと笑った。それが昔からの癖だ。
「すべてですわ、あなた。それと、みな様のことも。とくに三神様が暴走されませぬよう、「鬼の保安官補」の力で止めて下さいな」
「それは難儀だな。賊退治よりよほど難易度が高い」めずらしくさわやかな笑みとともに冗談をいうと、信江はまたころころと笑った。
「愛するわが子、あなたも気をつけて。父上や伯父上のいうことをよくきくのよ。けっしてやりすぎないように」最後のほうはいやに物騒な内容で声音にも脅すような響きが籠もっていた。幼いわが子への注意とは思えない。もっとも、それをいうなら賊退治に連れてゆくという時点で幼いわが子にさせることではないのだが。
信江は膝を折ってしっかりと目線を合わせてからわが子を抱擁し、それからその小さな頬に接吻した。途端に真っ赤な顔になり抱擁から逃れようとする息子にその父親は心底驚いた。
動揺した息子が父親をみ上げ、それからはっとしたようだ。母親のほうはさらに力を籠めて、それはもう必要以上に、そうまさしく体術の締め技のごとき万力でわが子を抱き締め上げた。その耳朶にそっと囁く母親。「勇景、このまま腕と肋骨を折られたいの?」「はいっ母上っ、父上と伯父上のいいつけに従います。やりすぎませぬ」本気気味の母親に逆らえるわけもない。子は慌てて叫ぶと母親の頬に軽く接吻をした。おずおず、とみえなくもないほど不自然にではあったが。
「あー、夫婦母子の和やかな雰囲気を壊して悪いが・・・。副長、いやいや保安官補、準備が整ったそ」
永倉が呼びにきた。その相貌ににやにや笑いが浮かんでいる。
気を操作して夫婦の場面もこっそりみていたに違いない。
その機で子は母親の抱擁からさっと離れ、待っている仲間たちのところへ走っていった。
「新八、お袋さんに幾つまで甘えていた?」
「ああ?」信江に別れを告げてから仲間たちへのもとへと歩きながら、土方は永倉に尋ねずにはいられなかった。
「そうだな・・・」笑い飛ばしてはぐらかすだろうと思ったのも束の間、永倉は意外にも真剣に思いだそうとしてくれ、実際に立ち止まってしばし記憶の糸をたどった。
「じつはおれはこうみえても甘えん坊だったんだ。剣術はじめてからもしばらくは一緒に寝たり湯浴みしたり・・・」
「なんだと?真剣に?」土方も立ち止まり、いまはすっかり強面に成長した「がむしん」を上から下まで舐めるようにして眺めた。
「なんだよ、副長?あんたがきくから答えたんだ」「すまぬ」土方は素直に謝罪し、二人はまた歩き始めた。
「息子のことだろう?そうだな、たしかに照れるにゃまだ時期が早いし、父親に対しても母親に対しても甘えることじたいすくなすぎる。甘えたとしてもまるで義務であるかのように不自然だ」
「ああ、そうだな・・・」
土方自身は早くに母親を亡くしている。が、母親がわりの姉には奉公にで、そこから逃げ帰ってきた後でもだれもいないときなどにはまとわりついて甘えていた気がする。
馬車の屋根をみ上げた。その上で息子はいま、朱雀の双眸を通じて上空から偵察している。
「叔父上、大事無いですか?」その声ではっとすると、対面で座している甥が自身の相貌を覗き込んでいた。
「ああ、大丈夫だ」
そう応じてから土方はまた馬車の天井をみ上げた。
だが、そのとき馬車に同乗している義兄の厳蕃と島田がそっとみつめていることに土方自身は気がついてはいなかった。




