怪談話(ゴースト・ストーリー)
「当時、わたしたちの屋敷の厠は母屋から離れた竹林の横にありました。昼間でも薄暗く、風のない日でもなにゆえか笹が揺れて「かさかさ」と音を立て、それはもう薄気味悪かったのです。昼間でもそうなのです、夜はもう恐怖そのものでした。しかも鍛錬で瞳に頼らぬ感覚を鍛える為厠だけでなく厠に至る道すべてに灯火がなかったのです」
信江は嘆息した。全員にその情景を思い描かせるためだ。
「兄もわたしも幼き時分よりその厠が苦手でした。夜などは厠へゆかずともいいように水を呑むのを無意識に控えていました。兄などはその辺でしようと思えばできるはずのものを、律儀に厠でしかしなかったものですからわたしと同じように夕刻以降は水も茶も呑む量をひかえていました」
全員が微笑んだ。厳蕃らしいと思った。武家の嫡男、尾張柳生宗家の次期当主、尾張藩主の次の剣術指南役、という現実や期待が圧力となってまだ幼い厳蕃に庭のどこかで立小便をすることすら許さなかったのだろう。
「しかも母屋で寝泊りしている三佐ら高弟たちがまことしやかに語るのです。「気をつけなせぇ、若様、姫様。あの厠はでますぞ」と。物心ついた時分よりわたしも兄もそのでますぞ、に怯えていました。もっとも、童によくある「ふんっ、そんなもの怖くないし信じていない」の姿勢、つまり虚勢を貫き通していました。それはわたしよりも兄のほうが強かったのです。こういうとき、女子のほうがいいですわよね?男子は気の毒だとそのときばかりはつくづく思ったものです。ですが、恐怖心がより強かったのもその男子です」
信江はその男子をちらりとみた。それを思いだしているのか、篝火に照らしだされた男子の相貌は真っ白だった。口唇がわずかに震えているようにも伺える。しかも瞳は信江をみずに宙を彷徨っている。
信江は呆れた。男子だったときはいざしらず、いまだ克服できていないのか?たいそうな心的外傷だ。
膝の上のわが子の両肩をそっと掌で押した。するとわが子は信江の無言の意を受け立ち上がると伯父のところへ駆け寄りその膝の上にちょこんと座した。
「ある夏の夜でした。三佐の実家、姉の墓のあるわたしたちがしばし住んでいたところです」信江はそういいながら夫、原田、沖田、それに後からやってきてしばし泊まった山崎に藤堂を順にみた。それからつづけた。
「その三佐の実家から西瓜が送られてきました。それはもう甘い西瓜で、姉、兄、わたしは後先考えずにその西瓜を競うようにして食べてしまいました。深更、厠へゆきたくなるのは当然のこと。わたしは兄の部屋にゆきました。妹の頼みを兄はけっして断らないことを逆手にとったのです。兄の部屋の前に至るまでにすでに廊下中に兄の呻き声が響いていました。兄は厠へゆくのを我慢し部屋のうちでのたうちまわっていたのです。そして、兄はわたしの願いどおり厠へついてきてくれました。兄にとっても渡りに船です。その夜も風はほとんど吹いていませんでした。なのに笹が揺れ、「かさかさ」と音がしていました。いまでもその音が耳朶に残っているほどです。わたしの掌を取る、というよりかはわたしが握る兄の掌は震えていました。いいえ、兄の全身が震えていました。当時、兄は剣術においては高弟たちと互角でほかの道場でいうところの目録程度でした。ですがあのときの兄に余裕はまったくなく、それどころか不安と恐怖でどうにかなってしまうのではないかとわたしはそのことのほうが子ども心に案じたほどです。わたしは尋ねました。「兄上、大事無いですか?さきに用を足されますか?」と。ですがいっさいの返答がありませんでした。そのときです、眼前の厠から「ぴちゃんぴちゃん」と水滴の落ちる不自然な音がきこえてきました」
だれかが息を呑んだ。そして、「わお・・・」とだれかが囁いた。
「気がつくとわたしの掌を取っていた兄の掌がありません。わずかにみあげると、兄は両の掌で自身の耳朶をおさえていました」
信江はもう一度兄をみた。恐怖が甦ったのか蒼白な相貌で膝上の甥を後ろから抱きしめ震えている。そして「やめろ、やめろ信江」と呟いていた。後ろから力いっぱい抱き締められている幼子はあきらかに当惑していた。好敵手がこれほど怖がりだったことをはじめて知り、驚きよりも戸惑っているのだ。
「笹が揺れる音に混じり、「ぎー」という音がきこえてきました。それは厠の扉が開くときにいつも立てる音です・・・」
市村が立ち上がりかけた。信江の兄と同じように相貌の色がよくない。信江がそっとみまわすと、市村だけでなく野村に伊庭、山崎も同様に相貌が蒼白になっている。意外なのは沖田に斎藤、こちらも蒼白までとはいかずとも怖がっている。さらに意外なのが永倉と、そして夫だ。この二人も平静ではない。
いずれもそのような存在を最初から否定しそうな性質だ。
「ゆっくり、ゆっくりと厠の扉が開きました。そして、わたしたちはそこにみたのです・・・」
『ひいっ!』
いいところでその思念が邪魔をした。
「壬生狼?えっ?」悲鳴の思念に全員が驚いた。もっとも驚いた厳周が伏せた格好で自身のぴんと立った両の耳朶を肉球で覆っている白き巨狼に走り寄った。それからぎゅっと抱き締めてやると白き巨狼は息子の胸のうちで『やめぬか、やめぬか』と何度も呟いた。
「可愛い」その情けない姿をそう感じたのは厳周だけではない。
「敷布を体躯にまとった姉が厠のなかに立っていました。それはまるで本物のそれでした。兄の悲鳴が屋敷中に響き渡り、そこで眠っている者全員を目覚めさせました」
そのとき厳蕃は膀胱の中の水分すべてをぶちまけた。兄の名誉の為信江はそれだけは語らなかった。
「性悪の母子だ、性悪の母子だ・・・」伯父に後ろから必要以上の膂力で抱き締められつつ幾度も囁かれた幼き甥の眉間に、力いっぱい皺が寄せられたのだった。
「伯父上と父さん、可愛い・・・」
それから甥はあまりにも可笑しくて眉間の皺を消して破顔した。




