悪戯と至上最強の姉妹
信江は真に話し上手である。それをいうなら厳蕃や厳周、さらには辰巳も話し上手だ。他人をよむことに長けている為間の取り方や抑揚ひいてはその内容まで他人に応じてかえられるからだろう。
全員、厳密にいえば話題のその漢以外、全員がわくわくしながらききいっていた。車座になった中央で篝火が天に盛大に炎の舌を向けており、その天ではお月様とお星様が地上を睥睨している。
信江の膝の上には普通の子のように幼子がちょこんと座っており、大人たちと同じように瞳を輝かせていた。まるで壮大な物語か荒唐無稽な巷談でも語られようとしているかのように。
「わたしたちの姉、つまりあの子の母親は強く厳しくそしてとてもやさしく思いやりのある女性でした。強さ、というのは無論柳生の剣士として業と精神双方においてです。じつは姉の皆伝は兄より年少の時期に授けられています。姉の剣術はまるで大きな川の流れのようであり、はたまた荒れ狂う大海のようであり、それこそ生命の源である水のごとき性質でした。お分かりのとおり兄の剣の性質は火です」信江は言を止めてちらりと兄をみた。すると驚いた表情の兄が妹をみ返していた。
「いつもそれはもう愉しそうに稽古する剣士でした。それは自身だけでなく、姉が道場にいるときにはともに稽古する剣士みな同じように愉しんでいました。ですが剣そのものを蔑ろにしたり道をそれるようなことがあれば姉は厳しくそれを正しました。兄とわたしは姉を師とし、剣の基礎を学んだのです。それ以外では家族想いのやさしく面白い女性です。なによりいたずらが大好きでした。姉の最大級のいたずらは、当時の尾張藩主が参勤交代で江戸へ上った際のことです。尾張藩主の剣術指南役の父に同道したのですが、その際将軍家剣術指南役と一勝負ということになりました。つまり江戸柳生尾張柳生の稽古試合です。ただの戯れのようなものでしたので双方の子が行いました。その試合で姉は江戸柳生の嫡男とわざと鍔迫り合いし、その道着の胸元に隠し持っていた牛蛙を押し込んだのです。江戸の子は驚きのあまりわんわんと泣きだしたそうです。ふふふっ、結構やるでしょう、わたしたちの姉は?」
信江の話にほぼ全員が唖然とした。そのなかには親族である厳周と幼子も含まれている。
いかに非公式、お戯れの余興といえど将軍と親藩の当主の御前で立ち合い相手の懐に牛蛙を押し込むなどとは・・・。当人は手討ちにされかねないし下手をすれば尾張柳生家は取り潰し、一族郎党切腹を仰せつかっていてもけっしておかしくない。
「ふふふっ」では済まされない生命がけのいたずらだ。
厳周と幼子は視線をみ合わせていた。最悪の処断の場合当人の弟妹は切腹だ。その子らである二人もまた生まれてこれなかった。それは辰巳であっても同じだ。当人の子なのだから。
「当時の将軍家も尾張藩主も寛容で冗談がたいそうお好きな方々でした。姉はそれがわかっていました。ゆえにいたずらしたのです。将軍家も尾張藩主も江戸柳生の子を気の毒だといいながら控えめに笑っていたそうです。ちなみにその江戸柳生の子の名は俊章、その後、姉も含めたわたしたちと因縁浅からぬ仲となる漢です。あの子の父でもあります」
信江の膝上の幼子の体躯がかすかに反応したのを、信江はさりげなく腕をまわしてやさしく抱いてやった。
「兎に角、姉のいたずら好きはときに周囲を笑わせ、ときに驚かされとそれはもうたいへんでした。そして、そのいたずらによって一人の漢に生涯消えぬ恐怖を与え、それは弱点としてつきまとうこととなったのです。ああ、俊章も蛙恐怖症になったようですけれども」
信江は小ぶりだが分厚く荒れた掌を口許にあてておかしそうに笑った。
その兄や子、甥や夫も含めて全員が思った。すくなくとも思わぬようにしたがどうしても思ってしまったのだ。
最強の姉妹だ、と。
その思いは人間のみならず、白いふさふさの毛に覆われた獣も思ってしまったことはいうまでもない。