阿鼻叫喚
「おいおい冗談だろう。神様よ、どうなってるんだ?」
この日、朱雀の運んできた一枚の文が「永遠の賭博師」を撃沈した。
朱雀には通常の鳥以上の能力が備わっている。仲間や知り合いがどこにいようがある程度の位置ならば的確にその居場所を察知し、その元へと飛翔できるのだ。
朱雀は鉛筆で認められた筆記体による文を足首に携えていた。すなわち英文による文だ。
「二、三日で紐育港に帰港できるそうだ」
息子からその文を渡され一読した土方が報告した。
ニック夫妻が帰国するのだ。
『ほうれみろ。系統の違う神に問うても答えは得られぬぞ、槍遣い?』
白き巨狼が長身の原田をみあげていった。その狼面にはにんまりと笑みが浮かんでいるようにみえるのは気のせいだろう。
「わかってる。おれも漢だ。素直に負けを認めるよ、わが神様方よ」
「へー、左之さん漢らしい・・・。ところで、勝ったらいったいなにをお願いするつもりだったんです?」
沖田だけではない。全員が原田の願い事に関心があった。神々も含めて。
原田は眼前に並ぶ三神に潤んだ瞳を向けた。
全員が驚きつつも辛抱強く告白を待っている。
「歯だ・・・」ほとんどきこえなかった。
『きこえぬぞ、槍遣い。もう一度いってくれ』
白き巨狼が苛苛とした様子でいった。
「歯だよ、神様方。歯が、いや、いまは口のなか全体が痛くて痛くて仕方がないんだよっ」
つぎはこれでもかというほどの大音声だった。そして、原田は居間の床にくず折れた。
「神様でも仏様でもなんでもいい。どうにかしてくれ、頼む。この痛みから解放してくれ・・・」原田の懇願は苦痛の呻きと涙声とに彩られたのだった。
『だいたい人間はつまらぬことで神仏を頼りすぎる。なにゆえ神が虫歯を治せるとでも思うのか?そのほうが不思議でならぬ』
白き巨狼は床にお座りし、床で七転八倒している原田をみ下ろしながら冷酷にいい放った。
原田はずいぶんと我慢した。そして耐え忍んだ。ひそかに祈願もした。身近の神々や遠くの神々に。それでも虫歯は自然治癒してくれなかった。自然治癒するには遅すぎ、虫歯菌の繁殖力と浸透力はすさまじかった。もはや歯そのものを腐らせていた。そしてその腐った歯を戴く歯茎に黴菌が入り込み、歯茎をも侵していた。
周囲に悟らせることなくここまで我慢した原田はある意味すごいだろう。
いまや全員が同情していた。大なり小なりだれもが体験したことのある苦行のようなものだ。
『賭けには勝ったが、これだけの痛みと苦しみは神の域のようだな。その我慢強さに免じ神の加護を与えよう』
「ま、真か神様方よ・・・」右頬を抑え、息も絶え絶えの原田に、白き巨狼はその狼面を大きく縦に振った。
『愚息どもよ、抜いてやれ』
しれっと命じると大きな口を開いて大欠伸をしてのけた。
「はあっ?」
命じられた愚息ども、そして患者当人が同時に同じ言の葉を叫んだ。
「歯っ?だって・・・」若い方の「三馬鹿」がくすくす笑っている。
「やめろっ!おまえらは経験したことがないのか、この悲惨な苦しみを?」苦しみに悶える原田を指差し、そう怒鳴ったのは島田だった。
(ああ、あんだけ「悪魔の心臓」のごとき甘い物を好んで食せば歯も痛くなるわな・・・)
島田の同情を超えた弁護に全員が妙に納得したのはいうまでもない。
「愚息どもよ、とくるか子犬ちゃん?それはともかく、左之、残念だがこれは抜くしかなさそうだ。気がつかなかったが、よくみれば腫れておるではないか?」
白き狼のうちなるものの愚息の一人厳蕃がいうと、全員が原田の右頬に注目した。傍にいた永倉が原田の掌を引っ掴んで頬から引き剥がすと、なるほど厳蕃のいうとおりぷっくりと頬が腫れている。
これでは口を開けることもままならなかっただろう。そういえば、最近とみに食事中の原田に勢いがなかったことに全員がいまさらながら思いいたった。
気づかせなかった手練がすごい、というよりかはどれだけ我慢強いのか?全員が呻り声を上げた。
『フランク、やっとこを持ってきてくれないか?』
『もちろん』
厳蕃に頼まれるとフランクはすぐに居間から飛びだしていった。
「いやだっ!止めてくれ、神様よ。痛いことをされるのは嫌だ。もういい、ほおっといてくれ」
原田は息も絶え絶え叫んだ。全員がさらに驚く。
「おいおい左之、なにを餓鬼みてぇなことをいってやがる。あっという間だ」
「切腹したり銃弾で腹に風穴開けるよりよほどましだろうが?」
土方と永倉の二人が同時に叫んだ。無理もない。正論だ。
「それとこれとは違うだろう?違う痛さだっ!」
いまや原田は痛みのあまりに泣き叫んでいた。ここにきていっきに痛みが増したのだ。
そして経験のある者たちは原田の抗弁に思わず頷いていた。
それも一理ある。
「だめだ、歯が腐ってる。このままだと菌が顎の骨にまで浸透してとんでもないことになる」
さすがは医療担当の山崎だ。両方の掌でがっしりと原田の相貌を掴むと傍らにいる厳周に口を開けさせ、なかを覗き込んで冷静に診断した。
「右下の奥だ。あっこれは親知らずだ、抜いたところでほぼ影響はない」
「いやだっ、いやだったらいやだっ!」相当な駄々っ子だ。同情を通り越して呆れ返ってしまう。
「左之さん、師匠だったらあっという間にやってくれるよ。こうして話してるうちにでも。だから抜いてもらおう、なっ?」
「平助のいうとおりだ。おれたちと話そう。なんなら酒を呑みながら・・・」
元祖「三馬鹿」の残り二人の説得にも応じそうにない。
「まぁ、なんの騒ぎですの?」
そのとき、居間にわが子を抱いた信江が入ってきた。
すぐに玉置が事情を説明する。すると信江は心底気の毒そうな表情になった。
「お気の毒に。これまでその痛みに一人で耐えてきたのですね。みせて下さいな」
母子は原田に近づいていった。全員が注目している。余裕のまったくない原田以外はなにが起こるのか内心わくわくしているのだ。
そう、原田に同情はするが柳生が起こすことへの興味は尽きぬ。
「左之兄、すごいね。我慢するってすごいことだよね。だれにもできないよね」
母に抱かれた幼子の単調な讃辞が室内を静かに漂ってゆく。
それが暗示であることに気がついたのは幾人だろうか?
「あーんしてみて、左之兄・・・。はい、あーん」
「漢らしいですわね、左之さん?痛みを我慢してわたしの料理を食べてくださってたんですね?」信江の声音も単調だ。「大丈夫ですよ、これからは痛みもなくおいしく食べられるようになりますから。ほら、これをご覧になって」
信江はわが子を抱かぬ方の掌を頭上に上げると原田の眉間近くで止めた。
口をあんぐり開けたまま、いわれるままにその掌をみた。信江の掌もまたこぶりだが異常に分厚い。そして、家事と鍛錬によって女子とは思えぬほどきれいではない。
そのとき、原田の眉間にでこぴんが発動された。
そして同時に口中からなにかが飛びだした。
「取れたっ!取れたよ、左之兄っ!」
飛びだしたものは歯だった。腐った歯である。
母が陽動し子が隠し持っていたやっとこで瞬時に抜き取ったのだ。
じつはこれは辰巳の技術だ。辰巳は興味を抱いたり必要なことはとことん独学で学び、その知識や技術を身につけている。医療もそのうちの一つだ。毒も含めた薬の知識から外科的な処置方法までそれは多岐に及ぶ。無論、歯を抜くことなど造作もない。
これが辰巳の技術であることを知るのは柳生だけである。
「ああ?抜けた?」原田は片掌でぱちんと弾かれた額を擦りつつ、もう片方の掌の指先を口のなかに入れた。
「触らない方がいいですね。後の処置は丞さんにお願いします。日にち薬でらくになるはずですわ」
「あぁ姐御、おれの女神様・・・」
感謝と讃辞を同時に送る原田を、土方は呆れたようにみ下ろしつついい放った。
「おめぇのじゃねぇ、信江はおれのだ」
途端に周囲からからかいの口笛があがった。
「やめてくれ、これ以上義弟は要らぬ」
「父上、ずれてます」柳生親子のぼけと突っ込みもあいかわらずだ。
『もう入ってもいいか?』
そう、やっとこを取りにでていったフランクは警戒されるので部屋の外で待たされていたのだ。
『どうぞ紳士君』扉の側でお座りしていた白き巨狼が思念を送ってやるとフランクはおっかなびっくりの表情になった。
フランクだけでなくスタンリーもいまだにこの四つ脚の狼のことがよく理解できていないのだ。