猛き霊獣 白虎
空気の流れが止まっている。それはまるで虚無。ただなにもないところに浮かんでいるかのようだ。
墓前に佇む小柄な剣士。その右の掌には細長い袋が握られている。もともとその袋には「桜花」という名の笛が入っている。
そして、袋には菊の御紋が・・・。
帝より下賜された名笛。剣士にとって「桜花」そのものはどうでもよかった。袋のほうに意味があったのだ。
袋の内側の一部が二重になっており、ほとんどわからぬそれは、紙片が一、二枚ほど隠そうと思えば隠せたろう。そして実際に隠されていたはずだ。無論、現在、そこにはなにもない。それどころか、そこに紙片を忍ばせていたという痕跡すらない・・・。
やはりあの子は知ってしまったのだ。自身の出生の秘密を・・・。
どんな気持ちになったろうか?同時に護り神のことも知ってしまっただろうから・・・。
「千子」に託されたのは、護り神に対しての警告、否、恫喝に近いもの。そして、自身の母の弟に対する感謝と懇願。前者はうちなるものからうちなるものへ、後者は人間から人間へと送られた言伝。
わたしにあの子のようにこれを抑えきり、人間として生きてゆくことができるのか?正直、自信がない。これ以上、人間の生命を絶つのは耐えられぬ。
わたしもまた妖、人間ではない。感情をもたぬ暗殺者。人間の血肉を喰らう獣・・・。
「おぬしはあの子の姿形をみたことがあるのであろう?否、みえたのであろう、ときいたほうがいいかな、義弟よ?」
背を向けたままそっと尋ねた。
柳生の兵法家の背後、林の木々の間にその兵法家の実の妹を娶った漢が立っていた。
無論、忍び寄るなどというつもりなどない。邪魔をすることを怖れ、ただそっと見護っていただけだ。
義兄に問われ、土方はその意図を解しかねた。が、悲嘆にくれているからとはいえ頭の回転に衰えはなく、すぐに思い至る。
「ええ、まだ餓鬼の時分ですが。あいつと出会ったばかりの時分です」
「暗示を解いたのか、あの子は?」「ええ。京であなたが仰ったとおりでした。だが、あいつの頑固さといったら・・・」わざと短く嘆息してみせると、義理の兄は背を向けたままおかしそうに笑った。「ああ、血筋だ・・・。あの子が暗示をかけた理由も理解しているか?あの子はおぬしにわたしのことを話したか?」
ほんのわずかな時間、土方のうちで警鐘がなった。この地で再会したときにも同じようなことをきかれた。あいつもすべてを話してくれたわけではなかったろう。おそらく、知っていい最低限のことしか話さなかったに違いない。なぜなら、この漢に始末されるだろうから。あいつはそれをなにより案じていたに違いない。
いいようのない恐怖。あいつに対してははけっして感じなかったそれが心の底から湧き上がってくる。
そのとき、音も気配もなく足許に白き巨狼が現れた。育てた息子に託されたものを護る為に。
恐怖が和らぐようだ。獣の存在があいつをも感じさせてくれるから。
「義弟よ、案ずるな。狼神、ぬしと遣り合うほどわたしも愚かではない。あの子は知ってしまったのだな、自身の出生を?」
白き巨狼は一声唸った。『ああ、知ってしまった。異母兄からの密書で。ぬしの握るその袋に忍ばせてあった。それにしても、なんともむごい話しだ。依代以前に神そのものの存在をもないがしろにするとはな・・・』
「・・・?どういう意味だ・・・。どういうことなのです、厳蕃殿?」
足許の白狼から眼前の小柄な背に視線を移す。いまだ墓前に向いて佇んでいる剣士。いいようのないその気は、いまだまとわりついたままだ。あいつが死ぬ前日、この眼前の漢が自身の師を暗殺したことを知った。その際、あいつはいったのだ。殺した理由があいつ自身の秘密を護る為、と。そして、その最期のときまで父親との関係に固執しながら、どこかそらぞらしくも感じられた。そう、まるで本当の父親であったと他者に思わせるような、自身にいいきかせるかのような・・・。
「わたしの役目はあの子の秘事を護ることだ」
そのあの子と同じ能力をもつ暗殺者がいった。土方の心中の奥底までよんでいるのだ。
「どうやらわたしのことを警戒し、あの子はおぬしに真実を話さなかったのだな」ふふっと短い笑声が伴う。
「あの子はよほどわたしを、わたしたちが怖ろしいか信用できないのか・・・。知りたいか、真実を?知ったところでよもやどうにもならぬ。当事者たちはすべてこの世になく、知っている者のほとんども同様。わずかに知っている者もそう長生きはできまい・・・」
土方が口唇から言をだすまでもなく、その心中を読んでつづける。
「あの子のうちなるものは、ちいさくて気弱でやさしい一匹の蒼き龍・・・。ときを経るごとに、宿る依代の位置によっては違う格がつく」
「大神?」「そのとおり・・・。無論、それまでにもわたしたちのうちなるものは建御雷之男神、倭男具那命などと格付けされることもある。まあ、そのような神話はどうでもよい。今回、母神である巫女は先にこいつを」厳蕃は背後の義兄をわずかに振り返ってから「わたしに降ろした」と言を継いだ。
旋風が巻き起こり、周囲の木々がざわめく。この夜は蛍の乱舞はなく、異様な気配に支配されている。夜間に活動する山の動物たちも、なにを畏れてか息を潜めているのだろう。ありがたいことに、頭上の月と星は大地を照らしてくれている。この眼前の小柄な漢の背を、そして、その向こう側には、その漢に神を降ろした巫女の墓をはっきりとみることができる。
「そして、巫女は自身の身に神の子を宿した。あの子に祖神と高位霊の融合神を降ろしたのだ・・・」
足許で狼神が唸った。
高位霊?大神のことか?祖神?祖神・・・?。土方は愕然とした。
「まさか帝の?あいつは、あいつは帝の・・・?」あまりの衝撃に不覚にも眩暈がし、そうと察した白狼が自身の頭部で土方の掌を受けてくれたので不様によろめくのだけは防げた。
「人間の観点からすればじつに馬鹿馬鹿しい話だ。神を降ろす力を持つ巫女とはいえ、人間としてはたかだか尾張藩藩主の剣術指南役の家柄のいかず女。どうやったのか、正直、考えたくもない・・・」人間としてはその実弟にあたる漢は、そういってから喉を鳴らすような笑声を上げた。
「だが、このことは朝廷内では長きに渡ってまことしやかに囁かれている秘事。それが必要以上に大きくなってはことだ」
「あなたはその為に暗殺を?自らの師や兄弟弟子、そしてあいつのくそったれの親父のことも?」義弟の最後の人物に対する評価のところで再び喉を鳴らして苦笑する。
それについては同感だ。柳生俊章は確かにくそったれだった。やつは、真実を知らず、姉を手篭めにし、その生命すら奪い、実子であるはずのあの子を虐げた上に殺したのだ。
「わたしの画策で疋田忠景が殺されたことを信江は知っている。だが、妹はなにもいわぬ。いっそ責めてくれたほうが・・・」単調な語り口調がわずかに揺らぐ。
疋田忠景は信江の亡夫である。そして、この漢にとっては義弟であるばかりか疋田陰流の兄弟子にもあたる。その義弟の父であり彼らの師もまた、この漢は暗殺したのだ。
「土方歳三、これがわたしだ。そして、あの子の成長が十歳で止まっていたと同じようにわたしのときも止まっている。あの子は十歳のとき、そのくそったれの親父の命で自身の心の臓を刃で貫いた。わたしが自らの心の臓をこの「村雨」で貫いたのは、あの子が日の本に舞い戻ったと知ったときのことだ」左掌が左腰の得物を軽く叩く。
「なんてことだ・・・」そう呟いた自身の声音は、情けないほど震えていた。
眼前にある背、小柄な背だ。さらに小さな背と重なる。小さな小さな背。それはいつも土方自身を、仲間たちを、その生命と矜持と想いを護ってくれた。護りぬいてくれた。その背と重なる。
さきほどまで感じていた異様な気配はいつの間にか感じられなくなっていた。
「いまのおぬしにならみえるはずだ。わたしの真の姿を、あの子の、そして生まれてくる子に降りるうちなるものの兄の姿をみるのだ。そして感じるのだ」
刹那、凄まじいまでの気が小柄な漢から発せられた。大地は揺れ、大気が震える。そのあまりにも強大無比の気に土方は立っておれずに地に片膝つく。
『主よ、落ち着け。よくみておくがいい』白き巨狼が寄り添う。
『あれがこの国では龍殺しともいわれる武神建速須佐之男命の格をもつ、四神が一神、西方を守護する白き虎、霊獣白虎である』
眼前に現れたのは、猛々しき白き大虎、偉大なる神の獣であった。
それは、あいつの蒼き龍とは違い、神々しい光のうちにあってもこの世のすべてを破壊し尽くしてしまいそうな荒々しさが感じられる。
狼神のいうとおり、これをうちに抑え込んでおけることのほうが不可思議だ。
あいつの蒼き龍といい義兄の白き大虎といい、どれだけ強い精神があればいいのか。
生まれてくる子も、その強き精神がなければはたして・・・。




