弁護士親子と土方親子
父親は金儲け主義の「弁護士」ではなかった。無論、家族に不自由のない暮らしをさせるだけの収入は必要だ。そこにわずかでも老後の蓄えと、できればいずれできるであろう孫たちへの欧州留学の資金もあればいい。それよりも顧客の生活と安寧が大切だ。それこそがなにより重要だ、といつも自身にいいきかせていた。先輩弁護士のなかには馬鹿稼ぎしてから政治家を目指す者もいるし、いい意味でも悪い意味でも稼ぐことに終始する者もいる。
弁護士はつねに法の下に平等でなければならない。
自身も含めそんな初歩的で当たり前のことすらできないでいるのが現状だ。
そして、この日弁護士としてだけでなく父親としても失格であったことに直面した。
忙しさにかまけ家族を蔑ろにしていた。わかっていた。いつも感じていた。息子の噂もきいていた。自宅で顔を合わしたのがいつだったかも覚えていない。食事すらおなじ食卓でとったのはいつだっただろう。
噂は噂だとしきこえぬ振りをしてきた。息子の話をきくどころか顔すら合わせようともしなかった。その怠慢と無関心が結果となって眼下にある。
小さな異国の子どもが、いつの間にかすっかり大きくなっていた息子を庭の土の上にねじ伏せているのだ。
その夜遅く足音を忍んで自宅の屋敷に戻ってきた弁護士を待っていたのは東洋系の親子だった。てっきり弁護の願いかと思いきや、東洋系の親子の父親は自身の息子が弁護士の息子に殴られて指の骨と歯を折られたというではないか。よくあるいいがかりかと思った。だが、その父親は紳士で穏かにただあったことだけを淡々と述べた。そこには弁護士の息子が小さな子どもを殴った描写だけでその前後についてはなにもなかった。
聡い弁護士は自身の息子の本性を認めないわけにはいかなかった。
被害者の父親は、公にすることもさりとて金で解決するということも望まないという。子の喧嘩に親がでる必要はない。が、けじめはつけさせてほしい。ゆえに子同士で決着をつけさせたい、というのだ。
驚いた。その雰囲気からあきらかに暴力での決着を、といっているのがわかったからだ。けっして話し合いなどではない。
弁護士は東洋系の親子を居間にいれ、そこで待ってくれるよう頼むと二階に上がって寝台で眠っていた息子を叩き起こした。そして仰天する息子になにがあったかをきいた。
息子はごまかしも嘘もなく真実を話した。それも意外だった。
話が終わったとき、父親は生まれてはじめて暴力を振るっていた。しかも自身の息子に対して、だ。父親に頬を殴られ、きっとみあげる息子の瞳にはあきらかに父親を非難する色があった。
おまえがなにもしてくれなかったからだ。話もせず、顔もみせず、いつも家にすらいなかったからだ、と。
わかっている。息子が他者に対して凶行に及ぶのは、父親としての責務を怠ったことに起因するのだ。わかってはいる。だが、いまはそれだけの問題ではない。小さな子どもを傷つけてしまった。その責任は親子でとらねばならない。
文字通り息子の首根っこを掴んだとき、父親は息子が自身の背も横幅も凌駕していることを知った。
そんなことすら知らないでいた。
庭でそれはおこった。おっかなびっくりでも戦闘体勢をとっている息子を子どもは瞬きする間もないうちに地面にねじ伏せたのだ。
だが、それ以上はなにもなかった。呆然とそれをみおろす弁護士の下で、子どもはねじ伏せた相手の掌を掴むと軽々と引きあげて起こし、それからぺこりと頭を下げた。そういえば向き合った直後にも子どもは頭を下げた。それから瞬時にねじ伏せたのだ。
それが礼、というものであることを弁護士は後で顧客のドン・サンティスから教えてもらった。
『怪我はなかったかい?』子どもの父親が弁護士の息子にきいた。息子もまたあっという間の出来事に呆然としている。月明かりの下、虐めっ子の唇が切れて血がでているのは、子どもにねじ伏せられたからではなく、さきほど自身の父親に殴られた所為だ。
『あのとき一緒にいたこの子の兄貴たちもきみらを殴り飛ばすことは簡単だった。だがそんなことはしない。ヴィトだって同じだ。お付きの強面たちにきみらを殴らせるのは簡単だ、だがそんなことはしない。なぜかわかるかね?きみにはきみの想いやいい分があるだろう。それをぜひ父親にきいてもらいなさい。君の父親はできた漢だ。それはけっして弁護士という地位や力によるものではない。人間として立派な漢だ。こんな立派な漢が父親であるだけでもきみは幸運だ』
弁護士の息子は、不貞腐れて子どもの父親とけっして視線を合わせようとはしなかったが、自身の父親のことを褒められてまんざらでもなさそうだった。
『じつはこの子は強くてね。だが、あのときは殴られるに任せた。力をむやみに振るわぬよう、力の使いどころがどこなのか、をつねに考えるよういっているからだ。きみはどうやらそうとう頭がよさそうだ。おれのいったことを理解してくれるに違いない』違いないという単語は「maybe」ではなく「must」が使われた。
そう、強要でも懇願でもなく自身でそうすれば、あるいはできればそれが一番いい。
『お騒がせしました。ドン・サンティスはかわらずお付き合い願いたい、とのことです。また縁がありましたらお会いしましょう』
ドン・サンティスからは、この夜の遣り取り如何で弁護士の顧客でありつづけるか否かを決めるといわれていた。そして、その採択を土方が一任されていた。
弁護士そのものの存在が土方にとっては馴染みのないものでじつはいまもよくわかっていない。日の本には存在しないからだ。
弁護士については、奉行所で奉行が裁きをする際咎人が無実であることあるいは情状酌量の余地があることを弁護する者、と山崎から教えられた。
正直、ふーんという感じだ。金を払ってまでしてもらうことなのか、と。
それは兎も角、漢として、父としてこの弁護士には共感できるものがあった。そして子育てとは難しい、ということも。
ゆえにドン・サンティスには彼の顧客であることをつづけてもらうようお願いするつもりだ。そもそも自身の息子が起こした騒ぎなのだ。こんないい漢の生活や生命を脅かすことなどあってはならない。
「父上、ごめんなさい」富士を待たせている茂みにいくまでに、後ろからとぼとぼ歩いている息子が小声で詫びた。
いきがけの鞍上では一言も話さなかった。信江に散々ひっぱたかれた尻が痛むだろうと思いつつ、土方は息子の小さな背をみつめるだけでなにも話せなかったのだ。
「こいっ、坊」土方は振り返って息子を手招きした。すると弾かれたように息子が走りよりその片脚に縋り付いた。
やることなすことあいつそのものだ。土方は疑念、そして感情の葛藤に悩まされつづけている。
人間の子だ。こいつはおれの子だ。
土方はわが子を抱き上げた。そしてしっかりとその胸に抱きしめた。その頭髪から陽と甘い匂いがして鼻梁をくすぐった。
あいつだ。昔、あいつの頭を撫でたり軽く抱き締めたりしたときに頭髪からおなじ匂いがしていた。太陽と飴の匂い・・・。いまは異国の地を照らす太陽と狼神のホットチョコレートの匂いが移ったのだろう。
「さぁ任務完了だ。母上やみんなのもとに帰ろう」
軽く頭を振って想いを断ち切ると、土方はわが子に笑いかけた。いつまでもぐちぐち叱るのは漢のすることではない。
「富士に揺られて尻は痛いだろうがな。そうだ、帰ったら父さんに舐めてもらえ」
わが子を按上にのせ、木の枝から手綱を解きつつ父親が提案した。
「やだっ!ぜったいにやだっ!」
上弦の月明かりの下、馬上から父親をみ下ろし激しく拒否する息子。
その眉間には濃く深く二本の皺が刻まれていた。
ああ、この表情だけはおれにそっくりだ、と父親はつくづく感じることができた。




