人身掌握と操作
虐めっ子たちが逃げ散ってしまうと若い方の「三馬鹿」はヴィト少年と清国人の少年、それからぴたりと泣き止んだ幼子の掌をひっぱり、グランドの向こうに立つかれらの保護者代わりの大人たちに近寄った。
「おいっ坊っ、はやくこい。どうした?血がでている、拭かなきゃ」
近づくにつれ、幼子は市村に引っ張られる掌を振りほどこうと抵抗しはじめた。
叱られることがすでにわかっているからだ。
その証拠に、いまでは若い方の「三馬鹿」の瞳にも腕組みして仁王立ちしている副長の眉間に濃く深く皺が刻まれているのががっきりとみてとれた。
「鉄っ、掌を離すなよ。息子をここまで連れてきてくれ」
いまや市村にも副長の怒りの矛先がわかっていた。ゆえに思いきって口唇を開いた。その昔、自身がよくあいつにしてもらっていたと同じように・・・。
「副長、坊はおれを止める為にやってくれたのです。あれがなきゃ、おれはあいつらをぶっ飛ばしてました。再起不能かへたすりゃ殺してたかも・・・」
弁護した市村の右の掌のなかには小さな小さな左の掌がある。その掌は小さいのに厚みがあることがはっきりと感じられた。そしてその掌の持ち主は市村の足許でおとなしく項垂れている。
「鉄っ!」その怒鳴り声はまさしく京でのあの怒鳴り声だった。まだ小姓だった時分、茶が熱すぎるぬるすぎるといっては怒鳴られ、届け物を誤配しては怒鳴られ、小姓仲間たちと騒いでは怒られていた。いつもいつも副長の怒鳴り声が屯所内に響き渡っていた。
副長が怒鳴らなくなったのは京での戦の後からだ。
市村は昔と同じように反射的に固まって頚を竦めていた。昔はその後に頭に拳固を喰らっていたのだ。
だがいま、市村の頭に触れたのは拳固ではなかった。副長の掌が市村の頭をやさしく撫でてくれている。
「鉄、よく我慢したな。立派だった。無論、銀、良三、おめぇらもだ。元服してもまだまだ餓鬼だって思ってたがな・・・。鉄、息子のことも庇ってくれた。礼をいう」
最後は市村の耳朶にだけ囁かれた。
副長にはすべてお見通しなのだ。
『トシ、ぼくのせいなんだ』言の葉のすべてはわからずとも雰囲気だけで状況がわかるだけの付き合いがヴィトにはある。副長の上着に慌てて縋り付こうとするのを、市村が頭を振りながら止めた。
『ヴィト、わかってる。かれにはわかってる、かれはよくわかってる』
それから自身の右の掌のなかの小さな掌と小さな頭を同時に撫でながら、「ごめんよ、坊」と謝った。
「おまえたちはしばらく向こうで待っててくれ。それから良三、その子の家をきいておいてくれ」
「承知。さあ、ヴィトもてっちゃんも向こうでしばらく鬼ごっこでもしていよう」
子どもらが去ると幼子は大人四人に取り囲まれた。
そのなかでも土方の怒りはすさまじい。俯いて地面をみつめつつ、幼子はどうしていいのかわからなかった。
どうしていいのかわからないのは土方も同じことだ。いつものごとく戸惑っていた。これはまさしくあいつのとりそうな行為だ。既成事実はできた。あらゆる意味で非は虐めっ子の側にしかない。表立っても裏であっても、いけすかない虐めっ子に制裁を加えることはできる。
だが、こんなことは普通の子が思いつく策ではない。それをいうなら普通の大人であっても然りだ。
そうとは気がつかぬよう相手を挑発し、極力影響のないところをわざと攻撃させて自身を傷つけさせる、などということは・・・。
相手は知らぬうちに被害者に成り果てているのだ。
このようなこと普通の父親なら許すはずはない。もっとも、普通の父親なら気がつくわけもないだろうが。兎に角、こんなことは普通でないことを通り越してもはや異常だ。日常のこんなささやかな事柄でも策を弄し相手を陥れたり自身を傷つけさせるのだ。これが戦時においてだったらいったいどうなるのか?さらに年齢を重ね、心身ともに自由がきくようになればいったいどうなるのか?
ぞっとしてしまう・・・。土方はあいつの体躯に刻まれた無数の傷のことを思った。そして義兄のそれも。二人ともその傷のほとんどが自傷によるものだ。あいつにいたっては、自傷か仲間の為につけたあるいはつけられた傷しかない。
良心の呵責、自責の念、人殺の重圧による解消方法だ。二人ともあきらかに精神を病んでいる。そして、生命を軽んじているのだ。自分自身の生命を、である。自身以外の生命については逆にその重さ、尊さをわかりすぎているし大切だと思いすぎている。ゆえに厄介なのだ。
生命についてわからせられない。すくなくとも他者だけでなく自身の生命も大切だということを、わからせようにもわからせられぬだろう。
あいつの話にはいつもあいつ自身のことは含まれていなかった。その感覚がないからだろう。わが身可愛さならぬわが身憎さか?
いったいどう説明すれば理解するのだ?
父としての土方の想いは泥沼だ。