恋と仇討ちの顛末
「いい「三馬鹿」だな」
しばらくすると斎藤が呟いた。
「でっどうなったんだ、その夏って娘は?」
原田に促され、相馬は微笑した。
「副長はご存知ありません。すくなくともご自身がいわれのない理由で生命を狙われている、ということは」「調べたんです、夏の父親がどこでいつ死んだかを」島田が壜を相馬に手渡しながらいった。「すると新撰組ではないということがわかりました。新撰組はまだ蝦夷にきてすらいなかった。それどころか夏にはもともと父親などいなかった。それどころか家族がいなかったのです。亡くしたのは許婚だったのです。この戦の為に駆りだされた漁民の若者で、調練中の事故で死んだらしいのです」
「坊とわたしはその後病院で過ごしている彼女に会いにゆきました。ちょうど鉄が副長の命を受けて蝦夷を離れる前日でした」
病室は三人だけだった。唯一の女性専用の病室だ。四床あるが患者は夏一人だけだった。無論、他の病室は満床あるのはいうまでもない。この病院は日の本における赤十字運動の魁ともいえる高松陵雲が榎本に請われて運営している病院である。その精神にのっとり敵味方関係なく治療を施すいわば中立地帯でもあった。
「加減はどうだい?」
寝台の夏に相馬が問うた。夏は顔色が悪かった。それが体調や精神の傷によるものかそれともそれ以外に理由があるのかは伺えない。寝台に上半身を起こした姿勢のまま夏は新選組の幹部二人と相対していた。
相馬も坊も寝台の傍らで立ったままだ。
「お陰様で・・・。あの、先日は・・・」蒼白ながらもその美しさを損なうようなことはない。
美しい、と相馬ですら思った。いい女になる、とも。
「夏殿、市村さんはあなたを好いている。そのこと、おわかりですよね?」唐突に切りだした異相の童を相馬は驚いてみおろした。
夏がちいさく頷いた。それだけでよかった。異相の童は問うた刹那に相手の心中に浮かんだ真意をよむことができる。
「明日、市村さんは五稜郭を去ります。任務を授けられたのです。そこであなたにお願いがあります。ここに彼がきたらにっこり笑って頷いて頂きたい。言の葉はいりませぬ。気をもたせるようなこと、お世辞あるいは真意や非難、あらゆる言の葉はいっさい・・・。われわれ漢は単純だ、そして夢想家でもある。この意味はおわかりになりますね。お願いできますか?」
めずらしく熱のこもった言だと相馬は横で驚いていた。京にいた時分より市村は控えめにいっても坊に対してきつくあたってきた。坊がその力を隠し、密偵間者として演じつづけてきたのをすっかりだまされた結果ではあるが、市村は「副長の甥の非力な餓鬼」あるいは「色仕掛け野郎」とずいぶんとひどいことをいったりしたりしていた。が、坊は気にするどころか市村に対して寛容だ。いまもそうだ、こうして骨を折ってやっている。
相馬の視界のなかで、夏が色は悪いがきれいな口唇を開こうとするのがみえた。
「いいえ、あなたに選択肢はありませぬ。夏殿、わたしはあなたにお願いしましたがあなたは断ることはできないはずです」
坊は一歩前にでるとちいさいが分厚い片方の掌を伸ばして夏の頬を撫でた。その掌の甲には京で市村たちをかばって兇漢どもに凌辱されたときの刺し傷がいまだになまなましく残っている。それは片方だけでなくもう片方にも残っているのだ。
いつも自身の呼称をおれと使っているのにいまはわたしと使っていることに相馬は気がついた。
「わたしはかような姿形ですが、いまの日の本で一番性質の悪い大罪人です。夏さん、あなたの許婚を殺したのは土方歳三以下新撰組ではありません。どこでどうおききよばれたかはわかりませぬが、新撰組はそのときまだ蝦夷にすらいなかった」
夏の口唇が驚きを形作った。「だが、あなたの仇はここにいます」坊は夏の頬から掌を離した。
「わたしです。この戦を起こしたわたしがあなたの許婚を殺しました。ゆえにあなたは討つ対象を誤っておられる。真に討つべきは土方歳三にあらず、この辰巳です。どうです、夏殿?これでわたしを刺すといいでしょう」坊はそういいながら懐から愛用のくないをとりだし、それの握り掌を寝台の上の夏に向けて差しだした。夏は生まれてはじめてみる特殊な武器に驚いた視線を落としている。
「敵のだれもがわたしのこの首級を欲しがっています。あなたがわたしを刺せば、これにいる相馬さんが首級を斬り落としてくれます。それを新政府軍にもってゆけば許婚の菩提を弔い、あなた一人ならほそぼそと生活ができるだけの恩賞がでるでしょう」
「おいっ、なにをいってる?」相馬は驚いて口を挟んだ。坊はそれを掌を上げて制してから夏につづけた。
「わたしは間もなく死にます。あの夜、気がつきましたよね?わたしの腹部には大きな穴が開いています。その傷がわたしから生命を奪うか、新政府軍の銃弾に倒れるか、あるいは自害するか・・・。その選択肢のなかにあなたかに殺される、というのがあってもいいでしょう?」
夏はくないを受けとらず、小さな大罪人と視線を合わせておくのも耐えきれず、下を向いたまま口唇をただ震わせていた。
「土方歳三を、あるいは市村鉄之助を、殺すつもりだったのでしょう?あなたにその覚悟はありましたか?夏殿、わたしは間者であり密偵です。そして刺客だ。どんな相手でもどんなところでも確実に仕事をこなすだけの経験と技量があります。たいていが大人の漢が相手です。情報を得たり獲物じたいを操ったり、あるいは縊り殺したり斬殺する。こういうことを如才なくこなすのにたった十歳の餓鬼ができることといったらなにかわかりますか?」
隻眼、そして左半面の二つの大きな傷跡の下に艶かしいまでの笑みが浮かんだ。
「大人の漢どもから陵辱され、あるいはされるふりをする。ときには大人の女性にさせられもする。わたしはそのどれをとっても相手を喜ばせ、人間の否、動物の本能たる雄雌の絶頂を与えることができます。そして、わたしは死を怖れない。否、生きることに頓着していない。だからあなたにここで殺されてもかまわない。わたしを刺し殺すのに抵抗があるのなら、わたしがあなたを襲うか、ああそうだ、あなたを頂くというのもいいかもしれませぬね。美しいあなたを犯した末に刺し殺された、という末路も漢としては本望かも。ただ、市村さんには申し訳ないが。まぁかれは最初からわたしを好いてはいないし畜生以下と思っていますからどうでもいいかもしれませぬが。いずれにしてもあなたには覚悟が足りなかった。ゆえに時間がかかりすぎ、わたしと会ってしまった。そして情が深すぎた。ゆえに獲物に惹かれ、それが本懐を遂げる妨げになった。あなたには無理だったのです。ですが、いまここにすべての元凶がいます。あなたの許婚を死なせた要因が。あなたのご家族は?父親は漁で、母親と兄姉は疫病で、いずれも亡くされていますね?その後あなたは親類の家で酷使されている。それだけではない、その親類の漢どもに弄ばれてもいる。この悲惨な環境もわたしの所為かもしれない・・・。なにせわたしは人間ではないのだから。ゆえにあなたの生い立ちもわかるのです」
辰巳はいっきにまくしたてると不意に口唇を閉じた。夏以上に傍らの相馬の心中のほうがざわめいているのが感じられたからだ。
「話しが長くなりました。わたしはあなたに殺されたくてここに参ったのです。さあ、受けとってください。そしてひとおもいにわたしを殺してください」
くないがふたたび差しだされた。
「ごめんなさい・・・。ごめんなさい・・・」
夏はとうとう両の掌で美しい相貌を覆って泣きはじめた。
「ありがとうございます、夏殿」辰巳はくないを懐におさめてからその夏の両肩を抱いた。
「市村さんの気持ちをわかって頂いて・・・。わたしは自害します。そうなればこの戦も終わります。蝦夷もこの将来どうなるかわかりませぬ。あなたはどうか前をみ、そして自らの脚で歩んでください。美しい女子としてでなく前途ある一人の人間として。人生には不幸だけがあるわけではありませぬ。それをみた人間にはかならずや幸運が現れます。夏殿、いつも身につけているものはありませぬか?」
唐突に問われ、夏はしばし瞳を伏せていたが寝台の傍らの台の上へと掌を伸ばした。そこに首飾りが置いてあった。蝦夷松かなにかの手彫りのちいさな熊がぶら下がっている。
「幼馴染はわたしをいつも護ってくれていました。この戦が終わったら、村に帰ってきたら一緒になろう、と。たとえわたしの親類から逃げることになっても、です」
「いい漢ですね」辰巳は素直に讃えた。「ええ、でも女子がどんなものを欲しがっているか、ということにはまったく関心も興味もなかったようです」夏はちいさく笑った。それは死んだ許婚に対する非難というよりかはただのおのろけのようだ。
「可愛い花や栗鼠、犬や猫ではなく羆ですよ?」
手渡されたその首飾りを辰巳は握り締めた。
アイヌではないが若者はその神を信仰していた。ゆえに村も含めたその土地を護る羆を時間をかけ想いを籠めて彫っていったのだ。そのちいさな手彫りの羆から愛が強く感じられた。辰巳は隻眼を閉じ、そこに羆をも統べる大神の力を注いだ。
「夏殿、これを肌身離さぬように。これからは許婚のみならず、市村さんとわたしがあなたを生涯護ります。たとえわれわれがどこにいようとも、あなたは三人の漢に護られます。どうか息災で。数々の非礼、どうかお許しください」
辰巳は首飾りを夏に返すと律儀に一礼し、相馬とともに病室を後にした。
「坊はわたしにまとまった金子を渡しました。箱館政府で得た給金でまったく手付かずのものです。わたしは彼の依頼でそのすべてを夏に渡しました。おそらく、彼女の生活や将来の役に立っていることでしょう」
相馬は話しをそうしめくくった。その横で島田がいつものように泣いている。
「坊は京でも一度も給金を受け取らなかった。じつは副長もすべて受けとらず、副長の給金の一部と坊のをすべて死んだ隊士、これは局中法度に背いて切腹や暗殺した者も含め、そういった隊士たちの墓守の費用や親類に渡していました。山南総長は無論のこと、芹澤局長、伊東参謀も含めです。それだけでなく、京の大火などで焼けだされた街の人々や浮浪者・浮浪児、神社仏閣などに寄付寄進していました」
泣きながら報告した島田だけではない。原田も無論泣いていた。
「坊がなにゆえあそこまで自身のことを人間でないと卑下していたのかいまだにわかりません。さきほどの岩倉の恫喝ですら心底という感じではなかった」
「待てっ相馬、さきほどのは坊が、ではない。あくまでも勇景が坊を演じていたのだ。そう感じて当然だろう?」斎藤の指摘に相馬ははっとしたようだ。照れ笑いを浮かべてつづけた。
「そうでした。いまの坊は死んだ坊のようにしか思えないのです。師匠の厳命する前からずっと。わたしのなかでは勇景というよりかは坊、死んだ坊としか思えませぬ。やはり可哀想ですよね、勇景が・・・」
原田は泣きつづけているが斎藤は思うところがあるようだ。島田は大きな掌で涙を拭うとことさら大きな声音で提案した。
「ちょうど葡萄酒もなくなりました。鉄の失恋物語の余韻に浸りながら今宵は休むとしましょう」
(鉄、すまない)と詫びつつ島田はごまかした。これ以上深入りされても厄介だと判断したのだ。
長い夜がしらじらと明けようとしている。
「というか夜を徹してしまったようだ。このまま朝の鍛錬といきたいところだが、さすがに今朝はさぼりたい気持ちだ」
疲れているのだ。真にもって稀有だ。斎藤が立ち上がって伸びをしながらそういった。
「そうですよ、すこし休みましょう。さあ主計、後片付けを手伝ってくれ」
島田はこれ幸いにとっととお開きにもっていった。
それぞれの夜は明けてゆく。新しい道が示されていることを祈りつつ・・・。