人殺(にんさつ)と淘汰
「いい子らだな」
一段高い艦橋の甲板部より、欄干に頬杖して子どもらの様子を見下ろしていた厳蕃が呟いた。
「ええ、近藤、土方両局長自慢の小姓たちです」
傍に控えている斎藤が応じた。平素からあまり感情も表情もあらわさぬこの漢もどこか誇らしげだ。とはいえ、感情や表情をあらわさなかったのは昔のことで、あまたの暗殺と戦を潜り抜け、さまざまな人間との接触を経る中でこの無愛想な漢にも昔とは違う表情がみられるようになってきた。おそらくは、暗殺者として徹するため、無意識のうちにすべてを封じていたのだろう。
いま、厳蕃によってここに集められたのは、毎夜の宴会から抜けでてきた試衛館時代の仲間たちだ。
「酒を呑むのを中断させて申し訳ない。手短に済ませる」
厳蕃は欄干に背を向け、それに背を預けてから義弟、永倉、原田、沖田、斎藤、藤堂を順番に見回して告げた。
いい面構え、いい気をもっている、とつくづく思った。武の技量は申し分なく、それ以上にその絆は断ちようもないほどに太い。そしてなにより、あの子を感じる。ともに過ごした月日、越えてきた様々な出来事。あの子はたしかに居場所を得、そして大切にされていた。そう感じるとわずかに安堵する。
この漢たちがいてくれたからこそ、あの子はすこしでもこの人間の世に留まる努力をしたのだ。感謝してもしきれない。
「師匠、大丈夫ですか?」沖田に小声で呼ばれ、厳蕃はふわりとした笑みを浮かべた。
「大丈夫だ・・・。話とは他でもない。戦いの場において、できうるかぎり殺さないで欲しい」「海賊どもを?峰打ちでいいんですか?」永倉が即座に反応する。
「そうだ、おまえたちの腕ならできるはずだろう、新八?」死んだ甥の持つ能力の一つに、相手の心中を読み、それを掌握するというものがある。それはなにもうちなるものの特殊な力ではなく、流派の技の活用。したがって、厳蕃親子、そして厳蕃の実妹でも扱える。いまもこの漢たちにこういえば素直にきくであろうことが、厳蕃にはわかっているのだ。
眼下の甲板ではいまも船乗りたちが酒を呑んで盛り上がっている。笑声、あるいは口論が、潮風と小波に混じって上ってくる。頭上には大きく丸い月。武士たちからすこし離れた甲板の端で、いまは壬生狼というふたつ名で呼ばれる狼神が、お座りをした姿勢で顎を宙空に突き出しその月を仰ぎみている。
「海賊だけにではない。これから将来、起こりえるすべての戦いにおいてだ。ああ、わかっている。きれいごとをいうつもりなど毛頭ない。できるだけ、という意味だ。だが、あの子らには斬らせたくない・・・」厳蕃はそっと眼下の市村たちに視線を向けた。「わかるであろう?あの子らだけではない。利三郎や主計、そして厳周にも・・・。人斬りの末路がどのようなものか、ここにいる全員が身をもってわかっているはずだ。歳、殺しは、わたしとあの子が受け持つ。あの子が成長するまでわたしが一人でやる。いいな?」
殺しとは暗殺のことだ。それにすぐに反応したのは、新撰組時代、厳蕃がいうところの殺しを受け持っていた斎藤だ。
「あの子に、あの子に殺しを?穢れ仕事をさせると?あいつと同じように?」動揺を隠すこともない。それは他の者も同じだ。
「いや、それ以前に、あの子らに殺しはさせたくないという端からなにゆえあの子にはさせると?師匠、そりゃずいぶんと矛盾した話じゃないですかね?」
永倉が眼下の若い方の「三馬鹿」たちを指差していった。その隣で藤堂もうんうんと頷いている。
厳蕃はふわりと笑みを浮かべてから、漢たちに背を向け両肘を欄干にのせて頬杖をついた。
漢のわりには小さな背。さらに小さな背をこの元新撰組の幹部たちは何度もみてきた。そして、自身らの背を何度も護ってもらった。それはさほど遠い昔のことではない。いまでもはっきりと脳裏に、瞼にくっきりと焼き付き刻まれている。
「総司、三佐の家で申したな、わたしたちが奪わなくとも、違う場所や理由で落とす、と?」背を向けたまま問いかける。
「ええ、申しました。だってそうでしょう?人間が生命を落とすのが運命なのなら、それはもはやどうあがいてもかえようがないでしょう?」
「ならばなにゆえおぬしはここにいる?左之、おぬしは?平助、おぬしはどうだ?歳、おぬしもだ・・・」
いっていることの意味がよく理解できない。厳蕃は姿勢を正すと再び振り返った。月と無数の星、船に置かれた幾つもの大型 洋燈の混じりあった光のなか、厳蕃の秀麗なまでの相貌に浮かんだ表情はなんとも形容のしようのないものだ。この漢自身の死んだ甥とどこか似ているそれは、全員をはっとさせた。
「わたしもあの子も理由にしがみつきたかった。しがみつくことで罪過から逃れようともがいた」
おもむろに着物の袷から両の腕をだす。諸肌脱ぎになった柳生の兵法家の上半身。熱気を孕んだ夜風にさらされた筋肉質の体躯のいたるところに刻まれた無数の傷跡。
誰かが呻き声を上げた。いや、他のだれかかもしれぬし自分自身のものかもしれぬ。この凄惨極まりない体躯の傷跡もまた、彼らの大切な弟分と同じである。そして、柳生の兵法家たちの体躯にあるこの傷跡のすべてがけっして他者から負わされたものでもないこともまた共通している。
自傷。自身の体躯を切り刻むという行為・・・。
「あの子は信じるものを、好きなものを護る為、あるいは与えられた命を遂行することに、わたしはあの子を護る為、それぞれ自身の行為を正当化しようと、ごまかそうと努力した」
厳蕃は着物の袖に腕を通しながらつづける。
「人間が人間を害するのは理不尽だ。たとえそれが戦だろうと命だろうと自衛だろうと・・・。そんなものはあってはならないし、おこしたくもおこされたくもない。これは人間につきまとう課題だろう。おぬしらもこの旅のなかでそれについて常に考え、悩んでほしい。それに結論や答えを求めるつもりはない。なぜなら、そんなものは誰にも、すくなくとも人間にわかろうはずもないからだ」
厳蕃の足許に白き巨狼がいつの間にか寄り添っていた。そのおおきな頭部をさして広く大きくもない分厚い掌がゆっくりやさしく撫でる。
「こいつらが行っているのは人殺ではない」もう片方の四本の指しかない掌が、自身の胸元と白狼、ついで欄干の下で人間の子らに抱かれている赤子へと順番に向けられる。
「淘汰だ。おぬしらの、あの子どもらの、この世に生きるすべての人間の命運を、こいつらは握り、潰している」そこで言を止めてからまた口唇を開く。
「ゆえにわたしとあの子には必要なのだ。人殺は、おぬしらではなくわたしとあの子が行う、よいな?」
いつもの笑みではない、ぞっとするような笑みがそこには浮かんでいた。
永倉も原田も斎藤も沖田も藤堂も、異様なまでの威圧感に気圧され、ただ呆然とみつめるしかなかった。
そのとき、いつの間にか土方が義理の兄の近間どころかその懐の内にまで入っており、義兄が驚愕するよりも早くその小柄な上半身を抱きしめたのだ。
「あなたもあいつも不器用すぎる。そしてやさしすぎる・・・」義弟が囁いた。なだめるような声音は、義兄にだけでなくそのうちなるものにも訴えているかのような響きを伴っている。
「もういいのです。あなた一人が背負うことはない。われわれはあなたの力には到底敵うわけも及ぶわけもありませぬ。だが、わずかでも支えたい。ともにありたいのです。あいつはうちなるものを否定しながらも人間の為にともにあろうとしていた。あいつと同じ、いえ、あいつ以上の力としたたかさをもつあなたにそれができぬわけはありませぬ。あなたたちはどちらも苦しんでいる。うちなるものもまた、弟に会いたくて会いたくて苦しみ、悲しんでいる。おれにはあいつらのこともあなたたちのこともわかるような気がします。あなたもあなたのうちなるものも、あいつとあいつのうちなるもののの生命と力を、そして精神を継いだおれたちを信じてください。そしてともにいてください。おれは、あなたやあの子も含めた全員に、状況が許す限り他者を害するようなことはさせたくはない。いまはこれでいいではないですか、義兄上?この将来、おれたちはおれたち自身で運命を切り拓くのです。おれたち自身で・・・」
義弟に抱かれたままの厳蕃の足許で白き巨狼が一声吼えた。
『同胞よ、人間は素晴らしいぞ。すこしはその獰猛な精神を落ち着け、両の眼でしっかりとみ、両の耳朶を傾けるがよかろう』
「なんだと?」照れた笑みを浮かべ、義弟の両の腕からゆっくりと身を起こす小柄な人間。
『おぬしではない、小さき(・・・)人間よ。わたしと同じ白く猛き頑固な巨獣に申しておる』白き巨狼は大きな口の端を吊り上げながら辛辣に返した。その白狼の頭部を力いっぱい抱きしめる原田。その頭上で「師匠、おれたちはあいつよりあなたの方がよほどずる賢くって頭でっかちで一癖も二癖もあると思いますよ」といつものように場の雰囲気を和らげる藤堂。
「わたしは最悪な漢、だな?」おおげさに嘆息してみせる小さき漢。それから、義弟の肩を軽く叩いてから改めてその義弟の仲間たちを見回した。
「あの子のことも含め、心から礼をいわせて欲しい。おぬしらがいるからこそ、あの子もわたしもこの世に踏み止まれた。ああ、そうだな、わたしは頑固でしたたかでその上腕が立ち過ぎてさらに女子にもてすぎる・・・」
「はあ?義兄上、後者二つは聞き捨てなりませぬな」
「そうですよ。腕はあいつ、女子はおれと副長だろう、やっぱ?」
相棒左之の指摘に永倉が大笑いし始めた。その隣の斎藤も彼にしてはめずらしく双眸に涙が溜まるくらい笑っている。沖田も藤堂も、そして原田自身も。
「馬鹿いってんじゃねぇよ!信江にきかれたらことだろうがっ!それに、どさくさにまぎれて自身も含めるんじゃねぇよ、左之っ!」
土方の訴えは、その義兄の笑声や彼自身の仲間たちの笑声によってはからずも掻き消されたのだった。




