気になるあの娘(こ)
箱館政府は慶応二年(1866年)に総工費十万両を超える費用を投じて造られた五稜郭を拠点とした。 出来たばかりの時分は箱館奉行が、幕府がなくなってからしばらくは公卿の清水谷公考が知事として統治したが、本土から北上してきた旧幕臣率いる榎本武揚らによって追われ、そこはそのまま榎本らが拠点とした。
かなり大掛かりな築造は費用だけでなく人間をも必要とし、最盛期には四千人、五千人の人夫たちで箱館の町はわいたという。
戦やそこを根城とする者の交代劇もそこで働く小者たちにはさしてかわりはない。箱館政権下であっても、小者たちは幕府健在時の箱館奉行からと同じ面子であった。
「夏、という名の女子でした」
市村は、車座になって葡萄酒の壜をまわし吞みしながらきいている一同に熱く語りはじめた。
女子に不自由のなかった原田などはいろいろな意味で話の展開にわくわくしているようだ。
「五稜郭で飯炊きをしていました・・・」
「えっ、なっちゃん?あのなっちゃんなの、てっちゃん?」田村が割って入った。田村もその政権で過ごした日々は長い。「まさか、あのなっちゃん?そんなことになってたの?」「だれ、どんな娘だっけ?」玉置も病に倒れるまでは過ごしている。必死にそこで会ったことのある女子たちを脳裏に浮かべてみた。
「ほら、お下げ髪の・・・。最初の時分、こっそり握り飯をくれただろう、良三?」
「ああ、あの娘・・・」玉置も覚えていた。が、即座に思わないように試みた。(可愛いあの娘がまさかてっちゃんと?域が違いすぎない?)と。
いまや若い方の「三馬鹿」もある程度他者の心中をよむことができるようになっている。
「なんだよおまえら、文句あるか?」田村と玉置をよんだ市村が案の定不貞腐れた。
「鉄、いいではないか?二人は妬っかんでるだけだ」苦笑とともに相馬が二人を擁護すると、市村はちょうどまわってきた葡萄酒を景気づけにとばかりに軽く呷った。
「で、そのなっちゃんってのは可愛い子だったのか?」原田が促すと、若い方の「三馬鹿」は同時に大きく頷いた。
「とても可愛い!」「うん、可愛い」「ええ、可愛い」
声を揃えて褒めるのをききながら大人たちは感心した。同じ和語でも英語であればいくつもの表現ができるのだな、と。
「そんな可愛い子が鉄にな・・・」「失敬ですね、一兄?おれたちがまだ五稜郭に入って間もない時分に夏がおれに声をかけてきたんですよ。「土方先生の小姓さんですか」って。おれにだけですよ」
とくとくと語る市村をみつつ、経験豊富で勘のいい原田と斎藤は心中で「おや?」と思った。そしてその小さな疑念はさらなる市村の語りによって間違いないことが裏付けられた。
「夏は戦で父親を亡くしたらしいんです」
原田も斎藤も同時に瞳だけで相馬をみた。すると相馬も二人をみていた。篝火に照らしだされた瞳にはっきりと「黙ってきいてやってほしい」と懇願に近いものが火の赤色とあいまって揺らめいてた。
「病に伏せる母親と小さな弟妹を養うために五稜郭で働いていたってわけです」
市村のささやかな恋物語はつづく。
いつあいつがでてくるのか、鉄はいつになったら自身が利用されているだけのことに気がつくのか、土方率いる旧幕府軍に父親を殺された、あるいは殺されたと思いこんでいる娘はどうやってその本懐を遂げようというのか。ある意味ではまるで巷談でもきくかのように原田も斎藤も耳朶を傾けた。
というよりかはだらだらと想いの丈をつづられるよりかはいっそ結末を知りたかった。
「ああやはりここにいましたね」
野太い声音に全員の視線が開け放たれた畜舎の扉へと向けられた。
島田だ。島田もまた仲間たちのことを案じてやってきたのだ。そして、島田もまたよく気のつく漢だ。腰のズボンに挟んだ葡萄酒の壜は二本だった。場の空気をすばやく察知した島田は、無言のまま仲間に加わった。そして懐から小刀をとりだすと原田と同じようにコルクを抜いて二本をそれぞれ左右に座す玉置と田村に手渡した。
「これでまた生き証人が一人増えた。鉄、両先生は女子の経験は豊富でいらっしゃる。小便臭い恋物語はあまり興味はお持ちでないだろう。かいつまんで話をしてくれ」
さすがは相馬だ。心得たものである。
「待て主計、おれはさほど女子の経験は積んではおらぬぞ」
そして、律儀に真実を述べながら相馬の機転に訂正を入れる斎藤もさすがである。
市村の物語はまだまだつづきそうだ。