人間(ひと)の当たり前とは?
まだだれの土地でもない森までくると高い木が幾本もみうけられる。この森をみ護る森神様は樹齢三百年は超えているブナの樹だ。土地神様としてはまだまだ駆けだしといったところだろう。
その樹の枝で幼子が脚をぶらぶらさせて深更の森を全身で感じていた。さして太くも丈夫でもないブナの樹の枝も幼子の大きさだと負担をかけずに済む。
いたたまれなかった。主の苦悩をみるのも接するのも。だから暗示をかけて眠らせた。時間が経てば緩和される。わずかではあるが。だが、そういう問題ではない。それはよくわかっている。よくわかっているがそうせずにはいられなかった。
この体躯に慣れてきてはいるが人間としての生活や付き合いには慣れることができない。ふつうの人間としての、という意味でだ。
食事、就寝すら辰巳にとっては難しい。ふつうの人間の生活がこれほど難しいものだったとは・・・。体躯の成長とともに感じずにはいられない。
そして感情表現・・・。
すべて生前欲していたのだ。渇望していた、といっていいだろう。だが、いざ与えられると戸惑うばかりだ。どうしていいのかわからない。演じることはできてもそれはあくまで辰巳が勇景を演じ、その上でさらに幼子らしくあるよう演じている。
そこに真実はない。
どうすれば本物の、真の人間になれるのか?
なりたいと切望する人間を害しつづけた自身にそのような資格はないのだろうか?
転生しなければ、すくなくとも無駄に主を悲しませずにすんだだろう。そして翻弄せずにすんだだろう。
生まれてきた子がふつうの人間の子だったら、狼神と白虎の二神だけなら、もっとやすらかにこの旅を過ごせただろう。
辰巳の想いは螺旋描写だ。
『もうちっと先にゆけ。腹ばいになりたい』
そこへ現れたのが白き巨狼だ。白狼は枝から枝へ跳躍して育て子のいる枝にやってきたのだ。育て子は素直に枝先のほうへとちいさな体躯を移動させた。できた空間に白狼の巨躯がのると、さして太くもない枝が低い呻き声をあげた。育て子の眉間に皺がよった。それをみて白狼は思った。「父親にそっくりだ」と。父親とは無論土方のことだ。
「狼神、従弟殿は?」『疲れておったのだろう。ぐっすり眠っておる。その親のほうはおまえの叔母上が相手をしておるぞ、辰巳。尋ねられる前に答えておこう』
「辰巳、とは・・・」幼子、否、辰巳は両の脚をぶらぶらさせながら含み笑いをした。双眸は暗い森のなかに向けられたままだ。
『おまえが狼神と呼ぶからだ。わたしたちの主はどうしている?』
「眠っています」『違うな、言の葉の遣い方を忘れたか?眠らされた、であろう?あいかわらずなにかあると暗示をかけるのだな。どうだ、いっそ全員に暗示をかけて辰巳の存在じたいを消してしまっては?お前一人では無理でも護り神の力を借りれば造作ないだろう。そうすればらくだぞ、おまえも主や仲間たちも』
「そんな・・・」さしもの辰巳も絶句した。それが育ての親の本心でないことはわかっている。それに昔かけた土方や近藤やその家族、村といった小規模なものとはわけが違う。辰巳の名はいい意味でも悪い意味でも世界中に知れ渡っている。いまこのときだけならまだしも、長期に渡って大規模にかけることなど不可能だ。それこそ神の領域の話になる。
否、そもそもそういう問題ではない。そういう問題ではないのだ。
辰巳は、坊はいたのだ。存在した。それを否定してもらいたくないし忘れ去られたくもない。ましてやその存在じたいなかった、ということなど・・・。
『馬鹿な子だ、辰巳。わたしの実子よりかは悧巧かと思っておったが、おまえほど馬鹿で不器用な子もめずらしい。辰巳、おまえほど愛されている者はおらぬぞ。おまえは人間だ。ふむ、たしかにうちに神はいるが依代じたいは人間だ』
大神については黙っていた。この機で告げることではない。いまは人間であると思わせることのほうが大切だからだ。
辰巳自身が大神であることは、いずれ自身で気がつけばそれが一番いいのだ。
『おまえの剣術や体術は人間離れしておる。それがどうして生活したり感情を表したりするのに躊躇や苦手意識をもつ必要がある?おまえはそれらが怖くて逃げているだけだ。なにゆえ向きあえぬ?たしかに、名ばかりの父親からは捨てられた。だが、その馬鹿だけであろう?おまえは主否、両親や仲間たちから否定されるとでも思うておるのか?おまえは生前から主や仲間たちのなにをみ、なにを感じてきた?もっと自信をもつがいい。そして主や仲間たち以上におまえ自身を愛し信じよ。矜持をもて』そこでいったん言をきってから紡いだ。『おまえはおまえ自身が思っているほど生活ができていなかったり感情がないわけではない。案ずるな、両親や仲間たちと過ごすうちに徐々に慣れるしうまくもなる。人間は育つ。学び、失敗しながら成長する。そういうものであろう?』
「父さん、人間がこんなに複雑だったとは思わなかった」
辰巳は育ての親ににじり寄るとその大きな頭を力いっぱい抱きしめた。
『おまえは自身で気がついておらぬようだが、おまえはかなり複雑だぞ?うじうじ悩むところなどもはやふつうの人間どころかそれを満喫しまくっている』
「えっ?」抱きしめる力を緩め、辰巳は育ての親の双眸を覗き込んだ。
『理解するのが遅すぎる。いまおまえがしていることこそが人間だ。狼や妖はいまおまえがしているようなうじうじはしやせぬ』
辰巳は心中と脳裏で育ての親の思念を反芻した。
「あぁほんとだ、わたしにもできる。人間ができる、できる」
ふたたびぎゅっと力強く頭を抱き締められながら育ての親はつくづく思った。
言の葉の遣い方は違うしそもそもの理解もずれているが、元気になればそれでいい。それでこそ狼神の育て子、人間の子なのだ、と。
「なにこの臭い?臭いっ!父さんでしょ?」
そのとき、辰巳、否幼子は甲高い声で叫ぶなり白き巨狼の大きな頭部から遠ざかろうとした。
そうはさせじと狼牙が夜の闇を斬る。
「やだっ!近寄らないでっ!臭すぎっ!屁こき虫っ!」細い枝上、幼子はじりじりと先端へと追いやられてゆく。
『なんじゃとわが子よ?育ての親を虫扱いするでない』「だって臭すぎるよ、父さんっ!やーい、屁こき虫ーっ」
幼子はそう野次りながら枝上で何度か後宙回転を繰り返した。そして最後はそのまま枝上から飛躍した。まるで猿のごとくほかの木々の枝をつたいつつ遠ざかってゆく。
『なんじゃあれは?人間の子はようわからぬ。つい先ほどまで泣いておると思うたらつぎは口いっぱいのことを申しおって・・・』
取り残された狼神はゆっくりと立ち上がった。その重みにまたしても枝が悶える。
『屁はわたしの所為ではない。カカオだ、カカオがわたしにさせたのだ』
闇のなか狼の二つの瞳が油断なく光りを発している。
『われら誇り高き狼族は木登りなどせぬ。ましてや猿のように木から木へと飛び移ったりせぬぞ、わが子よ』
枝上から白き狼の巨躯が掻き消えた。
枝から枝へと飛び移るその様は、いかなる猿よりすばやく華麗なのだった。