「小天狗」と「がむしん」の語らい
夜風はまだ冷たい。母屋の屋根の上にも等しく月と星の光が降り注いでいた。
だが、伊庭もまた戦での経験とアイヌの村で過ごした経験から夜目に慣れている。壁を利用して器用に上ると屋根上で胡坐をかいて夜空をみあげている先客に近寄った。
「ずいぶんと贅沢な酒盛りですね。夜空を独り占めにし、それを肴に一杯とは」
「ああ?ふんっ、一杯だ?こりゃ一本だ」
先客は利き掌のなかにある葡萄酒の壜を小さく振ってみせた。
「どうした、八郎?葡萄酒がなくなるのを案じ阻止しようと左之あたりがおまえを送りこんできたか?」
「まさか、葡萄酒がなくなるのを案じているわけではなく、その葡萄酒によってあなたが殺されないかと、酔って屋根から転げ落ちないかと案じているのですよ。ほんと、あなたがたは仲がいいですよね?」
「ちっ、いらぬ世話だ」
舌打ちして壜から葡萄酒をらっぱ呑みし、永倉は伊庭に座すよう身振りで示した。
「ああ、いい眺めだ。蝦夷でも夜空はきれいだった。亜米利加もかわらないな」
義手のほうもそうでないほうも尻の後ろについて仰け反って夜空を仰ぎみた。無数の星がさまざまな形を描きだしているのがよくわかる。アイヌの長老から、あれは熊、あれは柄杓、とそのみかたを教えてもらった。きっと亜米利加には亜米利加のみかたというものがあるのだろう。スー族の二人なら知っているかもしれない。
伊庭はスー族の二人にアイヌを感じていた。否、伊庭だけでなく野村や田村、玉置といったともに過ごした者たちもそれは同様だ。
「正直驚きましたよ。わたしもかなり長い付き合いだが、新八さんが激しく動揺するのをみたのは今回が初めてだ」
わずかに姿勢を正すと伊庭は永倉の横顔をみつめた。そこには出会った時分よりすこしだけ年齢をとり、すさんだ漢の表情があった。
試衛館と伊庭道場は仲がよかった所為で、伊庭はまだ餓鬼の域にある時分から永倉たちとつるんでいた。悪い遊びも教えられたし女遊びだって彼らに教えてもらった。無論、遊びだけではない。神道無念流皆伝の永倉から流派をこえて剣そのものを多く学んだ。それはいまでもつづいている。流山で斬首された近藤、京で切腹をした山南敬介、同じ京の鳥羽・伏見の戦で非業の死を遂げた井上源三郎、そして蝦夷で自らの頸を斬り落とした坊、彼らも含めて親密な付き合いをしていた。
浪士組として京に上り、その後新撰組としてともに過ごしたかそうでなかったかの違いだけなのだ。
ゆえに伊庭には永倉も含めた試衛館の友のことはよくわかっているつもりだ。
「おれをいったいなんだと思ってるんだ、八郎?おれは人一倍繊細なんだぞ、知らなかったのか?」
伊庭は永倉の言が終わらぬうちに噴出した。繊細などという単語、永倉ほど似合わぬ者は他にいないだろう。
「参ったよ・・・」かならずや強烈な張り掌か拳が飛んでくるものと思っていた伊庭はその囁き声に面喰らった。知れずその横顔を覗き込んでいた。
「ありゃなんだ?そのまんまじゃねぇか?うちなるものの力かなにか知らんが、あんだけのことできるのか?」
永倉は葡萄酒をらっぱ呑みしてから吐き捨てるようにいった。
それは伊庭も同意見だ。伊庭もまたあの宴にいた。元征夷大将軍徳川慶喜の護衛としてだ。ゆえにこの夜みたことすべてが驚異的だった。ある意味では京での宴よりも。
あれはどうみても当人だ。
最近では奇跡ばかりみているので感情が、というよりかは常識が麻痺してしまっている。なんでもありかなとさえ思っている矢先のことだ。
うちなるものや幼子に備わった力をもってすれば、あれしきのことは容易なのか?それとも、死んだ坊の霊でも降ろしているのか、あるいは真に坊だったのか・・・。
なんでもありのようにさえ思える。
「ははっ、情けないが銃弾一発ぶった斬ったのもよく覚えてねぇ。副長が狙われたのを反射的に動いただけだ」
苦笑が伊庭に向けられた。「驚きました。じつはさきほど一君にも同じことをいわれました」伊庭と藤堂、そして斎藤が同年齢というのは意外だ。永倉は伊庭が斎藤を君付けで呼ぶたびにそれを感じずにはいられない。
ちなみに、試衛館で出会った当初、斎藤、沖田、藤堂は自身らの生年をうやむやに語っていた。外見の落ち着きからその順で自他ともに認識されるようになった。が、じつは沖田があとの二人より二歳年長であとの二人は同年齢なのだ。現在でもよくわかっていないようなのがおかしな話だ。
「斎藤が?そうか・・・」年齢のことは軽く頭を振って追い払い、永倉は短く吐息した。
「あいつも衝撃的だったろうな?」「ええ。ですが、あなたもでしょうが副長のことも案じられていました」
「ああ・・・。そうだな、ありゃひどかった・・・」永倉はもう一口呷った。それから屋根上からみえる夜の農場をみ渡した。
永倉は遠い瞳のまま口唇を開けた。
「新撰組と袂を分かってからおれは幼馴染と靖兵隊で転々としたんだ。あるとき、山で迷っちまってな。ま、熊に襲われちまってそんときまず朱雀が現れた。そしてあいつが・・・。あいつは熊と戯れてからおれたちに付き合ってくれたが、あいつは副長から様子をみてくるように命じられて、といった。離反したおれや左之のことを、だ。すぐにわかったよ、副長はおれたちをだしにし、あいつを自身の傍らから遠ざけたってことが。そしておれたちにはあいつを留めるよう、すくなくとも副長の許に戻らぬようどうにかしろ、という意図があるんだってことが」そこでまた葡萄酒を呷った。
「無理にきまってる。できるわけない。実際、できなかった。なぁ、おれはあいつの真の力を知らぬ。あいつはいつもおれたちの背を護ることに専念していた。あるいは暗殺のような穢れ仕事だ。けっして目立たず控えめだった。あいつにすりゃぁ新撰組ごときの隊務など屁でもなかったはずだ。それよりも裏で日の本そのものを護ったり動かしたりしてたんだから・・・。それにおれは蝦夷でのあいつも知らん。日の本だけでなくこの世界で勇名を馳せていた大物だったってことを知ったのはこの旅にでてからだ。あいつはいつもおれたちを立ててくれた。おれはあのとき、どうしていかせちまったのか、留めきれなかったのか、いまでも悔いている。無論、副長にたいしてもだ」酒精が吐きだされた。永倉は眼下に広がる農場の暗闇から古くからの友人へと双眸を移した。年齢を重ねた相貌にはすさんだ表情だけではない。精悍さや知的さも皺となって刻み込まれている。
いい漢だ、と伊庭は心底思った。
伊庭はその柔和で整った相貌に笑みを浮かべた。
いつか語りたかったことをいまこそ語るべきだと悟った。
「蝦夷でのことをきいてもらえますか?」
伊庭はそういっていた。夜が明けるまでにはまだ時間はある。
きいてもらいたい話はたくさんある。