カミングアウト
農場の外れに大きな合歓木がある。大きい、というのはさほど高すぎるという大きさの意味ではなく横に枝を伸ばしているという大きさの意味だ。とくに邪魔になるわけではない。農場を見渡すようにたつその木はまるで神木のようだ。実際、白き巨狼が『触れるな、祟られるぞ』と含み笑いをしつつ啓示したものだから、人間は素直にそれに従った。だれかが真に受け注連縄を作って太い幹に巻いた。
三神をさんざんからかう人間もほかの神や神憑り的なものへの崇拝は意味が異なるのか、あるいは民族性か兎に角扱いがあきらかに違うようだ。
そのおおきな合歓木をだれかが「ご神木」とそのままの意味で名付けた。
身体能力の向上により全員が木登りを軽々とできるいま、それぞれがそれぞれの機でやってきては大きな幹をひょいひょいと上り、大きな枝の上に移ってはそこで時間を過ごすのだった。
「信江か?くると思っていた」
枝上、太い幹に背を預け、夜空の星星と大地の暗さの競演をただぼーっと眺めていた厳蕃は下から登ってくる人影に声を投げ下ろした。
「だったらそこをおどきください、兄上」
すると下から命令口調の言が投げ返された。厳蕃はそそくさとそれに従い枝を移動して人間が一人座れるだけの空間を空けてやった。
「一人になるのになにゆえいつも高いところを選ぶのです?」
「ご神木」の枝のなかでも人間がのれるもっとも高い位置にある枝だ。ほかの者はもっと下のほうの枝で過ごす。
女だてらに木登りなんぞ、などという言は不要だ。というよりかは心中を刹那でもよぎらせるだけで文字通り地に叩き落されるだろう。
「柳生の女剣士」の膂力はこの一行のなかでも上位に入ることはすでに証明済みだ。木を登ることくらい蟇肌竹刀を振るうのと同じくらいに容易にこなせる。
「馬鹿だからだ」兄は妹の問いにむすりとした表情で応じた。
「それよりも、登るよりも降りるほうが難儀だということを、おぬしは童の時分に学んだはずであろう?まさかわたしに抱っこされて降りるつもりなのか?」
失言だったと気がついたときには胸板に拳が入っていた。癒えたばかりの肋骨の何本かが悲鳴を上げた。
「ええ、ぜひともそうして頂きたいですわ、兄上」妹は兄が空けてくれた枝の上の空間に腰を下ろした。そこからみえるのは暗闇とそこに黒く浮かぶ農場と森、そして頭上を仰ぎみると無数の星と上弦の月。
「息子はどうしていた?」夜目でも妹の姿をみるのに造作ない。厳蕃はさりげなく隣の妹を観察した。
子を二人生み、育て子を含め三人の子を育てているようには到底みえぬ。自身の妹ながら美しい、とつくづく思った。
「どちらの息子のことですか?それとも両方のことですか?」
「まずは厳周。もう一方はそこにもう一人加えねばならぬ」
「部屋で休んでいました。よほど疲れたのでしょう。壬生狼に抱きついてうとうとしていました。あの子と壬生狼の関係のほうがよほど親子らしくみえるのは気のせいかしら、兄上?それとわたしのほうの子ともう一人のほうも休んでいます。もっとも、もう一人のほうはもんもんとしているようですし、子のほうは狸寝入りをしてこちらももんもんとしつつ様子を伺っていますが」
信江はそう報告してから掌を口許にあてて笑った。その様子をみた兄はしばし和まされた。
が、避けられぬ。それもわかっている。
「そうか・・・」妹から大地の暗がりへと視線を移した。
「兄上、礼を申し上げます」
頭ごなしに責められると覚悟をしていたところに妹のほうからおだやかにそう切りだされ、厳蕃は正直なところ面喰らった。不意打ち、とはまさしくこのことだろう。
「礼?なにに対してだ?それともそれはわたしの暴挙に対する嫌味なのか?」
隣をちらりとみつつ問うと、妹はまた掌を口許にあてて笑った。
「年齢はとりたくありませぬね、兄上?他人の好意や謝辞も素直に受けとめられぬとは」
「悪かったな。年齢を重ねればそれだけ悪知恵もつく。裏を考えぬわけにはいかぬ」
「話しは魁さんや新八さんから伺いました。無論、厳周からも。兄上、あなたの仰るその暴挙は結果的に歳三様をはじめとした新撰組たちの精神に燻っていたわだかまりをすこしは軽くしてくれたようです。もっとも、それを阻むことのできる者がいたからよかったようなもののそうでなければこうしていまここでゆっくり静かに思いで話のように語り合うことはできなかったでしょうが」
最後のほうになるにつれ口調がいつもの妹のようになってきた。なにゆえか厳蕃はほっとしてしまった。
礼よりか責められるほうがよほどいい・・・。
「そして、それを阻んだのが死んだ当人だったというところも功を奏したのでしょう」
「あの子はやさしすぎる。暗殺者として、あるいは戦人として世界中でその名を知らしめたわりにはやさしすぎる。否、甘すぎる。なに者に対しても非情になりきれぬのだ。よく生き残れたものだと・・・」そこまでいいかけて口唇を閉じた。「そうだな、その甘さがあの子自身を殺したのだな」と皮肉げな笑みとともにいい添える。
「これで使節団の皆様には生涯消え去らぬ脅威が、こちらの皆様にはつぎへと歩める道が、それぞれ与えられたのではないでしょうか?」
「そうであったならいいのだがな。義弟はなにかいっていたか?」「あなたからいいようのない気を感じた、と。そしてあなたの息子は怖ろしいまでのなにかを、とそれぞれ表現していました。演技でなく、それが殺意や害意ではないのでしたらそれはいったいなんなのです?」
妹に相貌を覗き込まれ、厳周はうっとおしそうに四本しかない掌をひらひらとさせてその相貌を遠ざけた。
「信江、わかっているであろう?わたしの精神は壊れておる。これはうちなるものやら護り神とはなんの関係もない。わたしは自身がわからぬのだ・・・」
夜空をみあげた。いっそのことうちなるものにすべてを喰らい尽くされれば、この心身をゆだねればらくになれるのであろうか?
「わたしは姉を愛していた。それは弟が姉を、あるいは家族や身内として、という意味ではない。一人の漢として一人の女を愛していた。それを奪われ自害に追い込まれた。そして、その愛する女の息子のこともわたしは愛していた。そんな性癖などないと思っていたし、実際、あの子以外の漢を愛するもしくは愛したいと思ったことは皆無だ。この気持ちはいったいなんなのだろうな?」
衝撃的な兄の言をその隣で妹はただ静かにききそして受け止めていた。
「憧れや愛おしさ、情、いかなる表現にでも置き換えられる。だが違うのだろう、そういった類の想いではない。実の姉や甥を愛してしまうなどと考えられるか?わたしが護り神としての役目も含めて人間を殺してまわったのが悋気によるものだと?」狂気じみた笑声が樹の下に広がる暗闇に落ちてゆく。
「新撰組で義弟が暗殺したのもあの子に対する悋気によるものだと?当人は否定しているが、悋気がまったくなかったわけではないことは当人もわかっているだろう。違う理由を大義名分に殺したことはどちらも同じことだ。狂っている、完全に狂っている。どうにかなってしまいそうだ・・・」
両の掌で頭を抱え込み、男泣きしはじめた兄の小ぶりの肩を妹は抱いてやった。
「歪んでおる、すべてが歪んでいるのだ。わたしは怖い。あの子が十歳まで成長したとき、わたしはまた歪んだ愛情をもってしまうかもしれない。わが師疋田景康と同じようにわが甥を陵辱してしまうかもしれない。わたしはそれを怖れている。そんな怖れや不安、あの子を奪ったことに対するあらゆるものが憎悪となってでてしまったのだ。そうだ、岩倉を殺そうとしたのは、亡くなった者や奪われた矜持やらに対する復讐などという綺麗ごとからではない。狂気によるものだ・・・」
妹はきくだけでなにもいわなかった。
自覚している。認めている。つきつめればそのどれもが真に歪んでいるのかどうかすらわからない。
姉や甥を手篭めにし陵辱しつづけたわけではない。純粋に愛しているだけなのだ。
漢の精神年齢は女子のそれより低い。信江にはそれがわかっている。そして、厳蕃が唯一甘えられるのが信江自身だけだということも。
できた女子であり母であり妻である信江はできた妹であることも間違いない。
「馬鹿な兄上・・・」男泣きしつづける兄の耳朶にそれだけ囁いた。
妹のわたしにはなにも想わないのかしら、とふと胸中をよぎった。このときばかりはそれをよむことのできる兄も気がつかないようだった。