苦悩の一夜
土方親子の部屋は一階の客室だ。無論、唯一の女性の為に数すくない寝台のある部屋の一つを使わせてもらっているというわけだ。その寝台は「The lucky money(幸運の金)」号のそれとは比較すればすこしは大きいが親子三人どころか夫婦二人並んで眠るには小さすぎた。ゆえに土方とその息子は床に毛布を敷いて眠り、信江は寝台で眠っている。が、この部屋じたい使うのは夫婦だけが多い。二人の子はたいていは深夜の鍛錬後にそのまま畜舎で育ての親に抱かれて眠るか従兄の厳周と眠ることが多かった。
この夜は様子が違った。
よほど疲れきったのか、幼子は帰宅するなり眠いとぐずりだした。劇場での余韻にしたったままの幼子の父がぐずる息子を抱き、自身らの部屋へ引き取った。
ほかの者たちもそれぞれの想いを脳裏や胸に抱いたままやはりそれぞれの部屋へと引き取った。
全員が憔悴しきっていた。驚くほど元気がなかった。どのようなときでも元気いっぱいの藤堂や市村でさえ笑み一つみせなかった。
彼らの死んだ弟分のたった一夜だけの復活劇が与えた影響はこれほどまでに大きくそして深かったのだ。
「あなた・・・」家事を終え、二階の様子をみてまわった信江が部屋へ戻ると、土方はすでに寝台に横になり、両の瞼を閉じていた。信江がそっと近寄り控えめに声をかけると、うっすらと瞼が開けられた。
「よく眠っていますね」土方の胸にしがみつくようにして眠っているわが子の頬を撫でながら信江が囁くと、土方はわが子の体躯を抱かぬ方の腕を伸ばして妻の頬を撫でた。
「わが子だ・・・」土方は低く呟いた。動揺はまだ去ってはいない。ともすればいま抱いているのはまだあいつなのか、とさえ錯覚、否期待してしまう。
「わかっています、あなた。今宵は息子と一緒に夢をみてください。なにも考えず、なにも思わず。後のことはまた・・・」
寝台の脇に跪くと信江は指先で土方の目尻に溜まった涙を拭ってやった。そっとわが子をみると、小さく安らかな寝息をたてて眠っている。
「信江、義兄上が気がかりだ。白き虎を呼びそれを封じた後、岩倉を殺そうとした。いいようのない気を感じた。あれが演技だとは思えない」
「わかっています。二階の方々もそれぞれの方法で気持ちの整理をつけているようでした」
夫は自身の妻をできた女性だとあらためて思った。
「勇景を頼みます」妻はさりげなく夫の口唇に接吻した。土方のうちに欲情がわいた。寝台に引き倒し手荒く抱きたい、その肌をそして肉を、さらには精神を犯し貪り心ゆくまで陵辱してやりたい。そうしても信江は黙って受け入れてくれるだろう。
いや・・・。土方はなけなしの理性を総動員しかろうじて欲望を抑え込んだ。息子がさらにしがみついてきたからだ。
土方の葛藤に気付いているはずの信江はなにもいわず、もう一度夫の口唇に接吻をしてから息子の頬にも接吻し、そのまま静かに部屋をでていった。
無論、妻としては夫の欲情に気がついていたし、母としては子の狸寝入りに気がついていた。
女子は真に巧緻巧妙な役者なのだ。
小さな音を立てて扉が閉まると、おれは寝台の脇机の上に置いてある蝋燭の火を吹き消した。それから身の胸に縋りつく息子を両の腕で抱き寄せた。
窓から射し込む月明かりは、室内を闇から遠ざけた。夜目に慣れている双眸は殺風景な室内をはっきりと認め、胸元にいる息子の寝顔をもはっきりと認めさせてくれる。
自身が身じろぎしてしまったからか息子が小さな呟きとともにその瞼を開けた。
「父上?」土方は上半身を起こして寝台の頭板に背を預けた。両の腕のなかから息子がみあげ、照れ臭そうに笑った。本来なら、父親似だの母親似などと夫婦でいいあうものだろう。目許はわたしに似て切れ長だの相貌のつくりはおれに似て精悍だの・・・。
一度も思ったことがない。さらには信江からもきいたことがないし仲間たちも比べたことがないだろう。どちらに似ているか、などという議論はほとんどない。それは外見だけでなく内面においてもいえる。
なぜなら、どちらに似ているかという以前にあいつと比べているからだ。否、あいつと重ねているからだ。おれや信江も含めて。
先入観がそうさせているのか、そうみさせているのか?あるいは切実に欲するあまりの幻覚か錯覚か?
いまもおれをみ上げる表情はまさしくあいつだ。あいつを幼くしたようにしかみえない。小さな体躯から右の掌を離しそれでこめかみをもんだ。それであいつが消え去ることなどないというのにおれは幾度ももんでいた。
「父上、大事ないですか?」あいつが、否、息子がきいていた。声音はもうあいつのそれではない。息子のものだ。
「あぁ大事ない。起こしたか?」息子は小さく頭を振るとおれの胸に小さな相貌を埋めた。
「父上、ごめんなさい」「ばかいってんじゃねぇ。なにゆえ謝る?」そういってからおれははっとした。ついあいつと話している気になってしまっていた。きつい口調だったろう。息子が小さく震えたのが伝わってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
息子は泣いていた。泣きながら幾度もおれに謝っていた。
おれは冷静さをすっかり失った。
「謝るんじゃねぇ」おれはさらにきつい口調で胸元の息子にいっていた。
くそっ!なんでこんなことしかいえやしねぇ?あいつでも仲間でも親友でも他人でもなく、女子でも姉貴や兄貴たちとも違う。敵やら味方やらとも違う。これだけははじめてのことだ。血を分けた子に接するというのは。
これまで多くの人間と会い接してきた。うまく付き合えたりできなかったり、さまざまだ。その相手との付き合いがどうなったかあるいはどうなっているにかかわらず、そのほとんどをうまくやりこなしてきている。それがどうだ?生まれてまだ二年くらいだってのに、これほどおれを悩ませ翻弄するやつはいままで一人たりともいやしなかった。あいつですらこれほど悩ませやしなかった。
子との付き合いがこれほど難しいものだったとは・・・。
否、それも普通の子、普通の父子だったらこんなことはないのか?
そこまで考えてはっとした。
くそっ、筒抜けじゃねぇか?
おれは恐る恐る胸元をみ下ろした。
泣きじゃくっていた息子がすっかり静かになっていたからだ。
どうすりゃいい?いったいおれはどうすりゃいいんだ、え、かっちゃん?
一瞬、窓の外をみた。無数の星が瞬いている。
かっちゃんは正妻つねとの間に娘が、京では落籍かせた芸鼓のお孝との間にこれもまた娘がいた。だが、遠方であったり職務や戦やらでいずれもほとんど接することができなかった。何度か話題にのぼった程度だった。むしろ子ども好きの総司のほうが様子を知っていたり接したりしていた。
「おい、勇景?」そのかっちゃんの一字をもつ息子に声をかけた。沈黙が痛いほどだ。
小さな寝息がしていることに気がつくまで、おれは自身の不甲斐なさと焦燥感とでどうにかなってしまいそうだった。
そしておれも急激に眠気に襲われた。