辰巳と土方、そして子と父・・・
招待客や護衛の軍人たちがこの夜のささやかな舞台から退場すると、土方はわが子の、否、大親友であり自身の一刀である童の前に両膝を折った。そしてしっかりとその目線をあわせた。これは土方だけではない、仲間全員の習慣だ。
両の腕を眼前の小さな童へと伸ばす。その腕は両方とも震えていた。両の瞳からは涙がとめどなく流れ落ちている。実際、土方は溢れる涙でその小さな姿をみることができなかった。
「坊・・・」死んだ友を呼ぶ弱く掠れた声音は哀れなほどだ。
土方の切望と希望の先で小さな体躯が土方の腕と同様に震えていた。み知らぬ大人に拐かされようとするかのように、土方の腕と視線、そして声音から逃れようと後ずさっていた。
それらすべてを拒否するかのように・・・。
辰巳は逡巡していた。ここで土方の腕のなかに飛び込めば、主の精神は救われ安らぐかもしれない。だが、それは辰巳あるいは佐藤龍という存在を肯定することになる。その瞬間に勇景という存在そのものが否定されてしまう。主従あるいは友や叔父甥としての関係は復活するが、逆に父と子である関係はそのまま終焉を迎えてしまう。
辰巳は父が欲しかった。そして母も。辰巳は本来の血統の父親はみたことがない。それどころかみることすら叶わぬ遠い存在の天皇だ。そして、表向きの父親は辰巳を妖扱いした。この世に生まれてすぐに捨てた。その数年後に生き残っていると知ると人殺しや密偵などというおよそ童がするようなことではない異常な務めをさせた。辰巳は一度も会ったことのない父に褒めてもらいたいばかりに人間を殺したり傷つけたりをつづけた。そして辰巳は、生まれてはじめて目通り叶った父親に褒めてもらうどころかさらに過酷な務めを強いられたのだ。それは「妖、自身を始末しろ。妖退治をしろ」であった。その方法も武家のならいである切腹ではない。辰巳は自身の心の臓を刃で貫く方法を選ばざるを得なかった。そして、その命をしくじった辰巳は一生涯それを後悔と哀しみに苛まれつづけた。
唯一、やさしく愛情深かった育ての親は人間ではない・・・。
辰巳は人間から愛されたかった。愛情が欲しかったしそれを逆に与えたかった。
土方のことを父としてでなく主とみている自身がたしかにいる。信江にしても母というよりかは叔母である。それでも現在のこの父と子の関係が大好きなのだ。父と母、そして子、それこそが人間が人間である為の根底なのだ。
いまの関係だけは壊したくない。たとえ土方が息子ではなく死んだ親友を欲し望んでいようとも。それを亡くしたことに心身を苛まれていようと・・・。
身勝手だ。それもわかっている。そもそも生まれかわるなどということじたいあってはならないのだろう。仏教には輪廻転生という思想がある。が、これは歪められたものだ。神が人間の気持ちを、想いを蔑ろにする禁術だ。それに加担した自身はやはり人間ではなくある意味妖なのだ。
辰巳自身に選択肢などなかった。それどころか気がつけば生まれかわっていた、というのはいい訳にはならぬのだ。
全員が父と子、あるいは土方とその一刀の様子をはらはらしながらみ護っていた。
舞台上から近寄ってきた厳周をその父親である厳蕃がそっと押し止めた。
どうするかは自身で決めさせよ。辰巳自身に選択させよ。われわれ一族は辰巳のその判断に従おう、ということだ。
いまでは全員が表面近くにある意識や思考をよむことができる、ゆえになにかを考え想うときには最下層まで潜らねばならない。
柳生の一族にしかできぬことだ。そしていま、柳生の姓をいただく三人はそれを行っていた。
時間はない。辰巳はさらに一歩小さな脚を後ろに下げながらついに決断した。そして、眼前の父にいった。相貌に笑みを浮かべようとしたが強張ってしまう。体躯は正直だ。強がる意識にはついていけない。
「父上・・・、父上、いかがでしたか?わたしの演技は死んだ従兄殿に似ていましたか?」
辰巳は自身でも情けないほどその声音が震えていることを感じていた。いまや張り裂けそうなほど胸は痛み、双眸からはいまにも涙がでそうだ。
脚を叱咤して後ろに下がっただけつぎはそれを前にだした。同じ高さに合わせた視線は、深い悲しみとわずかだが希望の光を帯びている。その色はまさしく主の心中と体躯中にある想いを顕著にしていた。
「違っていましたか?従兄殿のくないと対話し、伯父上から従兄殿のことをつぶさにきいて頑張って練習したのです・・・」
相対する者の無言がこれほど辛く感じられることはない。焦燥に苛まれつつ土方の子であることを選択した辰巳は声音を絞りだすようにいい募った。
「・・・。わかってる・・・」かなり長い間の後、土方がようやく応じた。
「わかってる。わかってるが、いまは、いまはただ、ただ抱しめさせてくれ、坊。頼む、頼む・・・」
真にわかっているのか?子は父のことが一瞬量りかねた。
だが、土方がどう理解しどう想っていようと、いまは、いまこのひとときだけは子としてでなく、餓鬼のときに知り合いもう一人の友である近藤を武士にするという夢を誓いあった親友でいて欲しい、と切に祈っているのだ。
子に、否辰巳にどうして異存があろうか?なにゆえ拒否する理由があろうか?
わずかの間その場で自身の足許をみつめていたが、子はふたたび毎夜練習した死んだ従兄を演じることをつづけた。相貌を上げるとさらに一歩、そしてさらに一歩土方との間の距離を縮める・・・。
近間どころか直近まで土方に迫ると、子が演じる辰巳は主の足許に片膝ついて控えた。
その自然な所作は、あまりにも自然すぎて土方のみならず周囲の仲間たちをもはっとさせた。
それはまさしく新選組にいつもみていた光景そのものだった。
「わが主よ、大事ありませんでしたか?命に従ったわたしはいい子でしたか?」
面を伏せたまま静かに尋ねた。溢れでる涙と嗚咽は、もはや我慢どころか止めることも緩和させることすらできそうにない。そして、それは彼自身の主のほうでも同じだった。
「馬鹿いってんじゃねぇ・・・」両膝をついた姿勢のまま土方はまず面を下げた自身の一刀の相貌に震える掌を添えて上を向かせた。「馬鹿いってんじゃねぇ・・・」さらにいう。それは昔いつもいっていた両者の間での合言葉のようなものだ。
「よくやった坊・・・。いい子だ、坊・・・」
多くは必要ない。「いい子だ」・・・。この一言もまた両者の魔法の言なのだ。両者の関係はすべてこれに集約される。
呪文のごとくその言を呟きながら土方は震える掌を自身の親友の後頭部へとまわした。そしてそのまま胸元に引き寄せしっかりと抱しめた。
「いい子だ、坊・・・」
土方は仲間たちの瞳を憚らず泣いた。現世に呼び戻された親友を抱きしめたまま。
声も涙も鼻水もでるがまま流れ落ちるがままにした。そして、自身の想いもまた包み隠さず解放した。
胸元にいる親友にその想いのすべてが落ち、受け止めてくれていることを祈りつつ・・・。
島田の号泣が小さな劇場に響き渡った。原田のそれも。
すぐ側でみている永倉や沖田や藤堂もそれは同じだし、近寄ってきている他の仲間たち、山崎、相馬、野村、市村、田村、玉置も同様だ。旧知の仲の伊庭も泣いている。
土方のもう一振りの刃もまた両の膝を劇場の木の床につけて泣いていた。相棒が、相棒が戻ってふたたび自身らの遣い手の為にその鋭き刃を翳したのだ。これが泣かずにおられようか?
同じ一族の親子もまた泣いていた。息子のほうは土方の胸に抱かれし辰巳を育てた白き巨狼を抱きしめて涙し、その親はいつもの冷静さなどすっかりなりを潜めたかのように四本しか指のないほうの掌で秀麗な相貌を隠して泣いている。
この夜、劇場の床を濡らした涙の量は、まるで蒼き龍が降らせた恵みの雨のごとく大量だったに違いない。