「金色の瞳(まなこ)」
距離は約五間(約9m)、その距離まであのときと同じだ。
刹那以下の間の後、その場にいる全員の瞳に映しだされたのは劇場の床に仰向けに押し倒された岩倉とその胸の上にのっている小さい方の舞手、そしてそのすぐ横で片膝ついて岩倉の相貌をみ下ろしている大きい方の舞手だった。
「久しいな、わたしのことを覚えているか岩倉?わたしの方はしかと貴様を見張っておったぞ。その・・・」小さな舞手は不気味な笑声を上げながら岩倉の腹部の辺りで二度、三度と小さな脚踏みした。
「腹のなかにあるわたしの左の瞳を通してな」それからさらに気味の悪い笑い声を足許に落とした。
小さな舞手の体躯の小ささと凄みのある声音や笑声とではあきらかに違和感がある。
岩倉は与えられた衝撃のあまりの甚大さにもはや言や悲鳴を発するどころか失神してしまいそうなほど床の上で震えている。そしてそれは周囲の者も同様だった。招かれた客、招かざる客双方ともに。
小さい方の舞手が小さな掌を後頭部にまわして面を結ぶ紐を解きはじめると、大きい方の舞手もそれにならった。大小の舞手たちは、相貌を伏せたまま外した面を床に丁寧に置いた。
野村作の素晴らしい面の下に現れた素顔は、さらにだれをもさらに驚かせ、息も言も同時に呑み込ませるに充分であった。
金色の瞳・・・。神の依代の証・・・。
舞うことで二人は妖を開放したのだ。神という名の妖だ。
「辰巳の首級は検めてくれたか、岩倉?」
岩倉の胸の上に立つ幼子。それが岩倉の相貌を上から覗き込んだ。そして、その左側の瞳は劇場の天井からぶら下がっている洋燈の淡い光の下、金色に輝いていた。そのすぐ傍らで小さい方の舞手と同じように覗き込んでいる大きい方の舞手のそれは右側の瞳だ。
「辰巳は死んだがこうして戻ってまいった。貴様に会いたくてな、岩倉」悪意ある笑声がつづく。
「貴様も役者だな、岩倉?わたしが何者か存じておるのだろう?」
そう問うた刹那、二つの金色の瞳が椅子から腰を浮かせてみている二人の副使に同時に向けられた。大久保と木戸である。
「そうか、薩摩だけでなく長州も知っておるのか?」天下の大罪人とされた辰巳は岩倉の上で含み笑いをした。「わが護り神よ、きかれたか?いま、こやつらはわたしの正体を心中で叫びましたぞ」そういいながら辰巳はさりげなく自身の掌を護り神の肩にのせた。いまの厳蕃に余裕はない。なぜなら、白き虎をこれ以上ださせない為必死に抗っているのだ。掌を添えることで蒼き龍が兄神を諌めてくれる。
大久保と木戸もまた震えていた。あらゆることが脅威だ。すでに人間の叡智や力の及ぶところではない。ましてや一個人の保身や国の安泰などという水準でもない。
人類と神、否、神々が人類をどうかしようとしているのだ。
「案ずるな、いまはまだ生かしておいてやろう。東方の小さき国を滅ぼしたとてなんの面白みもないからな」幼子の相貌に愉しげな笑みが浮かんだ。
「先の戦の礼を申したかっただけだ。それと忠告を・・・」
幼子は不意に小さな体躯を折るとその小さな相貌を床の上の岩倉の耳朶に近づけ囁いた。
「忘れるな、わたしには資格がある。先の帝より宣旨を賜っている。それがなにを意味するかわかるであろう、お偉い公卿様?傀儡の現帝もお喜び下さるはずだ。そうなればわれらの世、徳川の世に戻るやもしれぬしもっと違うものになるやもしれぬ。それも面白かろう?」
そのとき、獣がごとき第六感をもつ辰巳は気がついた。それは自身の眼下にいる岩倉だけでなく、近くにいる大久保と木戸からも感じられた。
「まてっ、まってくれ・・・」脚の下で岩倉が喘いだ。酒で潰れた声音は恐怖によってよりいっそう掠れていてききづらい。
「どうすれば許してくれる?あのときは、あのときはああするしかなかった。徳川の世を、日の本を根本から改革するにはああするしかなかった。けっして自身の欲得だけではなかった。ゆえにいまは日の本をよりよくする為に腐心している」
もはややけくそか開き直ったのだろう。哀れな姿形で哀れっぽい声音ではあったが岩倉は必死に訴えた。
それに嘘はなかった。辰巳や厳蕃だけでなく、土方らにもその心中がわかった。
古き体制を武力で追い払った側にだけ非や罪があるわけではない。むしろ古き体制にそれがあったゆえに改革が必要だったのだ。そして、それを煽動し、画策し、実行した岩倉ら立役者たちは、まったく欲得とは無縁とまではいかぬものの、すくなくともそれ以上に国や世の中をよくしようとする情熱はあったはずだ。
岩倉は新しい世を作る為に私財を投げうつことも厭わなかった。
この襲撃じたいがしょせん負けた側の自己満足と抗いにすぎぬのだ。
土方と辰巳を演じる息子の視線があった。
「もういい、やめろ坊っ!」土方は自身の懐刀に命じた。すると懐刀は即座に無言で頷き了承した。それから岩倉の胸元から降りようとしたところで再度その酒焼けした相貌に小さな口唇を近づけると囁いた。「日の本に戻ったら貴様らが暗殺した坂本龍馬の名誉を回復しろ。貴様らは新しき世にもっとも必要で有益な人材を貴様ら自身で亡くしたのだ」岩倉は無言のまま何度も頷いた。
辰巳は慶応三年(1867年)十一月に京の「近江屋」で暗殺された坂本龍馬が大好きだった。その人となりも思想も。そして、暗殺を阻止できずその腕のなかで死なせてしまったことが悔しく残念でならなかったのだ。
「動くなっ!話しはもう終わる。じっとしていろ」
唐突に警告を発すると辰巳は一足飛びに間合いを詰め、長卓の下座にいる村田を卓上に押えつけた。村田は他の者たち同様微動だにせぬまま、というよりかはできぬままでただ呆然とみていただけだ。
「村田先生、江戸の薩摩藩邸で西郷・勝両先生の会談で忍び込んだ際におみかけしました。西郷先生たちはお元気ですか?」
辰巳は椅子の上にのってそこから腕を懸命に伸ばして村田を押さえつけていた。そしてその右の耳朶にそっと囁いた。村田のほうはそれが演技だとすぐに承知した。実際、押えつけるにしてはほとんど力がこもっていなかった。
ゆえに調子を合わせることにした。その問いに無言で頷く。
「薩摩にはよくして頂いた。大きな借りがあります。西郷先生、黒田先生、桐野先生方にどうかよしなにお伝え下さい。それと、戦のご健闘を心よりお祈り申し上げる、とも。村田先生、あなたも含め薩摩隼人の心意気をおみせ下さい」
「戦?」村田はすぐに思いだした。辰巳には将来をみる力があり、日の本ではまた戦が、しかもそれは西郷が起こす反乱となり日の本にふたたび騒擾があるだろう、と黒田からきいたことがあった。
辰巳の謎かけのごとき言伝も、深く考えるまでもなく乱を起こす側の薩摩が負けることを意味している。
「よか、必ず伝えもんそ。東郷も元気にしておいもすよ」それだけでよかった。薩摩もまた辰巳に借りがあることを伝えたかった。感謝もまた。
つぎは辰巳が無言で頷く番だった。それからすぐに村田の上半身が解放された。




