御神楽
「封印など解く必要はありませぬ。蒼き龍に呼応し白き虎はでようとするはず」
「わかっている。ああ、よくわかっている。案ずるな、瞳に金色を湛えるくらいなら耐えられるだろう。それよりも真によいのだな?」
今宵の舞手二人は舞台の袖で観客たちの様子を伺っていた。島田が厳蕃の指示の元に縫った舞い用の衣装をまとい、掌には野村の手彫りの舞い用の面を握っている。
流れてくる調べは二名の奏者の息が合っており、優雅かつ壮大で玄人並みの腕前だ。
小さな小さな舞手は大きい方の相方をみ上げると不敵な笑みを浮かべた。
「この舞いは帝、すなわち神に捧げられる舞い。それを神自身が舞うというのもなかなか乙なものですよね?とはいえ、わたしはずっとこの力を妖の力としてきました。ふふっ、それもまた当たらずとも遠からずでしょう、叔父上?」
小さな舞手の囁きに、大きい方の舞手は無言だった。
大きい方の舞手は不安だった。舞うことじたいやこれから一芝居うつことに対してではない。蒼き龍に触発された白き大虎を抑えられるかどうか、に対してだ。
小さな舞手の面を握らぬほうの掌が大きい方の舞手の指が四本しかない掌をそっと握った。
四本しかない掌は冷たく、小さな掌は温かい。
「いざとなればわたしたちがいます。それに父さんも」
そこではじめて大小二人舞手の足許に白き巨狼がお座りしているのに気がついた。のんびり欠伸をしている。座っていても立っていても、小さな舞手より白狼の方が体高がある。
『その通り、案ずるな。それよりもあれが獲物か?骨ばっていてそれでいて皮が硬そうでちっともうまくなさそうだ』
舞台の袖口から観客を眺めた白き巨狼の両の双眸が細められた。
「白き大虎の観点も同様だ」「蒼き小さき龍の観点も無論同じです」
つまり、岩倉は喰らうには不味そうだということだ。神獣たちは岩倉を文字通り箸にも棒にもひっかけていないわけだ。
「さぁ舞いのはじまりです!」
そして大小二人の舞手はそれぞれの相貌に面を装着した。
コップを握る掌はまるで瘧のように震え、長卓を覆う布にしみを作っていた。
流れる調べ、そして二名の舞手の舞い、どちらもまったくあのときとおなじだ。時代と場所、そして観客は違えども、そもそもの状況は酷似している。
掌だけではない。いまや体躯全身が震えていた。震えはするが自身の意思では指一本動かすこと叶わぬ。
あのときとおなじだ。あの宴の再現ではないか・・・。
酒に強く、どれだけ呑もうとけっして酔うことのない岩倉がこのときばかりは悪酔いしそうだった。否、いっそ意識を失ってくれればいい、とさえ思った。
平舞、そして走舞はこの緊張感漂う状況下にあっても観客の瞳を惹きつけた。その後、武舞にかわるとその気が起こりはじめた。その気もまたあのときとまったくおなじだった。視覚による舞いと感覚による気は、どちらも最初は観る者の気分を昂揚させてくれた。眼前で行われている武舞が舞手の動きを激しくしてゆくにつれ、気もますます高まってゆく。大小どちらの舞手も一心不乱に舞っている。そして奏者もまた一心不乱に自身の得物を奏でている。
それもまたおなじだ。
そして武舞が最高潮に達したと同時に、昂揚感がいっきに真逆のものへと変じた。つまり不安と虞へと突き落とされたのだ。いいようのない不安、そして虞へと。
そのとき、大きい方の舞手の大音声が響いた。
「土方っ!呼べっ、あの世よりおぬしの一刀を呼び戻すのだ」
どこか緊迫感を帯びたその叫びは、岩倉に負けず劣らず呆然と舞いを眺めていた土方をはっとさせた。
舞いをみて義兄の企みを、この策戦の意図が確信したのだ。
あいつだ。いま眼前で舞っているのはあいつだ・・・。
自身の息子が演じているにもかかわらず、土方はそれ以外に思いも理解もできなかった。体躯中が震えているのは岩倉のものとは違う理由からだ。
「「豊玉宗匠」っ!」沖田が椅子ごと傾け土方の耳朶に囁いた。土方はそれでまたはっとした。
よくぞ弟分を傍に置いていたものだ、とつくづく思った。さっと周囲をみた。永倉、原田、斎藤の三人もまた呆然と舞台をみつめている。そして藤堂は土方をみていた。そこに浮かぶいたずらっぽい笑みはなにゆえか土方の口唇を開けさせるだけの力を与えてくれた。
「坊っ、戻れっ!おれの元に戻れ、坊っ!」
土方は立ち上がると同時にそう叫んだ。刹那、舞台上の小さい方の舞手が弾かれたように後ろ向きに飛び退り、それから片膝を床につけた姿勢で動きを止めた。
呼吸を整える刹那の間の後、小さな舞手はそのままの姿勢で咆哮した。
「岩倉ーっ!」
それはまさしく狼の咆哮だった。そして、それはまさしく辰巳という二つ名をもつ少年の咆哮だった。
わが名を呼ばれた岩倉以上にあの宴でそれをきいた土方と永倉ら三人のほうの動揺のほうがよほど大きかったに違いない。
そして、小さな舞手は間髪入れずその姿勢のまま跳躍した。