母は強しされど叔母もいと強し
「母上・・・」幼子はわざと子として振る舞った。
「都合のいいときだけ勇景のふりをするのはおやめなさいっ!」
叔母はぴしゃりといった。叔母をごまかせるわけはない。
子であることに失敗した甥は、あまりの恐怖にまた一歩小さな脚を後ろへと動かしてしまった。
「男児はどうしようもないわね?そう思わない、辰巳?」甥は無言で頷いた。ここは肯定するところに違いないと思ったからだ。
「きなさいっ!」怒鳴られているわけではないが甥は上目遣いで母をみつつ、つぎはおずおずと前に脚を運んだ。すでにその間合いは腕を伸ばせば届く範囲だ。つまりは太刀でなくとも小刀の類であれば相手を斬り裂き貫ける間合いというわけだ。
「男児たちは真に馬鹿で愚かよ・・・」信江は呟きながら両膝を折って甥と視線の高さを合わせた。それから小さな掌を掴むと胸元に引き寄せた。甥は抗うことなく素直に叔母の胸に抱かれた。
「今回のことがいかに無駄な争いだということをわかっているのでしょう、辰巳?仇討や復讐、という気持ちが理解できないわけではないの。だけどそれがいかに無益か、そして互いを傷つけるだけだということを男児にはわからないのよ。そしてなにもできぬままただ待つということがどれだけ辛いことか、あるいは眼の前で親友が自身の頸を跳ね飛ばすところを涙ながらに語ってきかせられることがどれだけ苦しいことか、あなたたちはなにもわかっていない。なに一つわかっていないしわかろうとすらしない」
叔母の胸に抱かれたまま甥はさきほどの自身の叔父と同じようにただ黙ってきいているしかない。
「京の疋田の道場で「わたしは自身のことばかりでわたしを生んでくれた母のことなどこれっぽっちも考えなかった不孝者だ」と申したのを覚えていますか?そう、あなたはなにもかわっていない。そう申した後でも、そして現在でも。あなたはどれだけの人々に苦しみを与えているかわかっていますか?家族や仲間だけではないわ、腹違いの兄にも与えたでしょうしその子である甥に対しても与えたはずです」
辰巳の腹違いの兄というのは慶応二年(1867年)に崩御された孝明天皇である。明治天皇は甥にあたる。
「わたしは、わたしはいったいどうすればいいのです?なにをどのように感じ、すればよいのです叔母上?」信江の胸のなかで辰巳が問うた。稀代の暗殺者でありその一生を血腥い世界で生きてきた童にとって自身の身の上のことなど頓着しない。する必要もないのだ。しかも生まれながらに身内の情に恵まれなかった童に、どうしてその情が理解できようか?
「わたしは、わたしにかかわるすべての人間を護ることしか考えられませぬ。それのなにが悪いというのです?」
叔母をその胸元からキッとみ上げて甥は詰問した。小さな頬を膨らませさらにいい募る。
「自己犠牲などと格好をつけているわけではありませぬ。わたしは馬鹿だから、暴れることしか能のない愚か者だからそれしかできぬだけです・・・。ならば叔母上、あなたはなにゆえ疋田忠景と一緒になったのです?わたしが母の形見の懐刀と対話するまであなたは真実を、姉を殺し甥の頸を打ち落とそうとした漢と誤解していたはずだ。その仇となにゆえ添い遂げ一男をもうけたのです?」
刹那、辰巳は平手打ちを喰らった。辰巳はそれをよけなかった。なぜなら、口唇の外にだしたと同時にすぐに後悔したからだ。ゆえに叔母の言の葉によらぬ非難を甘んじて受けた。
仇討ち・・・。辰巳にはわかっていた。信江自身の兄はごまかせても、あるいは厳蕃も薄々勘付きそ知らぬふりをしているか、厳蕃もまた妹と同じように自身の気持ちを偽っているのかはわからない。だが、彼らの甥である辰巳にはわかる。
「いまの話と疋田のことは関係ないでしょう?」「いいえ、自己犠牲という点では関係あるのでは?あなたは姉の仇を討つ為にご自身の一生を捧げねばならなかった。突き詰めればそもそもの元凶はわたしだ。結果的に始末したのはあなたの兄ですが、あなたが真に憎み討たねばならぬのはこのわたしだ、辰巳です」
さらに平手打ちが飛びそうになったのを、つぎは小さな掌でその手首を掴んで防いだ。
「ええ、あなたのいう通りわたしには他者の気持ちなど推し量る気など毛頭ない。それはいまでもさしてかわりませぬ。なぜなら、わたしはわたし自身より他者が大事だからです。他者の無事や平穏がわたしにとって最優先事項なのです。感情などあくまでもいっときのもの。時間はかかろうともいつかはそれも癒える。死んでしまっては元も子もない。違いますかっ!」叔母の手首を握る掌に力がこもっていることにも気が付かず、幼子の姿形をした辰巳は感情的に怒鳴りつけていた。その双眸から流れ落ちる涙の滴が一つ二つと土に点を描きだしてゆく。
暖かくなってきたいま、暖炉もどきは暖をとるものではなく畜舎内を照らす灯りがわりになっていた。
「童のあなたになにがわかるというの、辰巳?」信江は深くて濃い二つの瞳をしっかりと見据え冷えきった声音でいった。甥に掴まれた手首がその圧力に悲鳴を上げているのを我慢しつつ言を紡いだ。
「愛してなどいない漢の子など産むわけはない。たしかに、忠景は姉を殺しあなたも殺そうとした。忠景は真実を伏せ、自身が殺したとしてそれを話してくれました。ですがわたしや兄からいっさい許しを請うことなどなかった。生涯姉を見殺しにしあなたを傷つけたことの罪の意識に苛まれ地獄の苦しみをあじわいつづけました。この気持ちはあなたにもわかるでしょう、辰巳?」
手首の圧力が弱くなった。
他者を傷つけ殺すことへの罪の意識・・・。それについては辰巳はだれよりもよく理解できる。
「憎み恨む気持ちがまったくないというのは嘘になります。ですがわたしは忠景の人となりに接し、感じ、それで一緒になったのです。いつか兄が彼を殺すであろうことをわかっていながらです」
辰巳は信江から視線をそらし、それを下に落とした。信江の手首からちいさな掌が離れそのまま力なく落ちる。
「忠景は、あなたが彼自身の父を殺していないことを知っていました。ですが父親があなたにしていたことは知っていた。それを止められなかったことについても悔やんでいたようです。一度も口の端には上らせませんでしたが。そして、兄が殺したことは気がついていたでしょう。疋田景康を惨殺できる剣客などそう多くはなかったはずですから」
辰巳は甲高い笑い声をあげた。人間とは真に面倒だ。感情などなまじもつものではない。喰う眠るという本能で生きている動物のほうがよほどらくでいい。依代を狼神にした父さんの面倒臭くなくていい、というのがよくわかる。
「「わたしが生まれてきた所為で」というのはもうきき飽きました。昔のどうでもいいことばかりを振り返り拘るのもあなた方漢よ、辰巳?あなたはこの世に生まれてきた。あなたは神の依代であり柳生の血筋の者で親どころか人間の愛情を知らぬままに育ち、幼い時分からその人間を傷つけ殺しつづけた。それはすべて過去だしそれをどうしようにもできない。だとしたらなにゆえそれをいつまででも振り返り、蒸し返そうというの?感情はいっときのもの。あの戦のこともいずれは忘れ去られる。ええそうよ、あなたのいうとおりだわ。ならどうして忘れ去らないの?わたしは女子だからあなたがたの悔しさや悲しみはわからないでしょうね。それに、矛盾したことばかり並べ立てては正当化していることも理解できない」
叔母の辛辣な言をきいているうちに甥の笑声はしだいに小さくなった。目尻に溜まった涙を小さな指で拭ったが、それは笑ったときにでてきたのものではけっしてない。
「叔母上、すべてあなたの仰るとおりです」辰巳は素直に認めた。どだい、女子に口で勝てるわけはない。だが、これだけは、此度の作戦だけは中止にできない。なんといわれようと完遂する必要があるのだ。ゆえに辰巳は誠心誠意述べるしかなかった。
「馬鹿で愚かなわれら漢は、どのような形であれ決着をつけねば前に進むこともできぬのです。お願いです、此度の作戦どうか了承ください。そしてどうかみ護ってください。全員が無事であることを約束致します」上目遣いにそういってから辰巳は慌てて付け足した。「わたしも含めて、です」
信江は無言のまま目顔で近寄るよう辰巳を促した。地につけた両の膝頭が痛むだろうと思いつつ、促されるまま辰巳はふたたび信江に近寄った。
「父と母を覚えていますか?」唐突に問われ、辰巳は一瞬だれのことを示しているのか考えねばならなかった。
「先代様とその奥方様のことですね?ええ、よく覚えています。どちらもこんなわたしにおやさしくしてくださいました・・・」それから「あっ」と小さく呟いた。
そう、信江と厳蕃の父母は祖父母にあたることに辰巳はいまさらながら思い到ったのだ。
「あなたの祖父母もまたあなたのことを案じ、悔いていました。死ぬまでずっとです。庭の桜の木や夫婦石をみながら涙し、あなたの身を案じ同時に無事を祈りつづけていました」
辰巳はやりきれない想いでうなだれた。知らぬこととはいえ孫としてなにもできなかったばかりか精神に負担をかけてしまった。
「あなたが「生まれてきたから」というのはだれも憎みたくなくてあなた自身がいいきかせているいい訳です。あなたには感情がある。それをなにも抑える必要はない。そしてあなたが生まれてきたこと、あなたがいてくれたことで幸福や勇気を与えられたり、なにより生命の尊さを学び、それを愉しみ大切にしている人間がいます。その筆頭があなたの主であり、わたしたち親族そして多くの仲間たちです。辰巳いえ、勇景、あなたは生まれかわった。もう過去だけをみるのはおやめなさい。どうか将来をみ、歩みなさい・・・」
叔母は母に、そして甥は息子へとかわったのだ。
叔母の胸に抱かれる照れ臭さはいまだ拭いきれないものの、それでも甥だった息子はその胸に相貌を埋めるとひとときの安寧を味わえるような気がした。
「あぁそうだわ、いま一人の馬鹿で愚かな漢のことを忘れていました」
しばらくして母がそう呟くまで、子はその母の胸に相貌を埋めたまま同じく失念していたのだった。