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石田散薬と無くて七癖と眼光紙背

 控えめにドアを叩く音がした。室内にいる一族にはドアの向こうにいる者がだれであるかまですでにわかっている。訪れた者がそのように気を発しているからだ。

「まぁ魁さん、どうなさいましたか?」

 信江がドアを開けた。女子おなごが生まれながらの役者であることはいうまでもない。

「師匠と厳周はいかがですか?」

 扉の向こうに巨躯が現れた。信江に無言で促され、おずおずと室内に入ってきた。

「じつは以前副長から頂いたものがありまして、それが残っていたのでお二人にもってきました」

 島田の左掌には葡萄酒ワインの壜が握られており、右の掌には布包みがのっている。

「「石田散薬いしださんやく」です」

 幼子が悲鳴をあげた。それは島田の言に反応して叫びそうになったところをそれより先に母親が幼子を黙らせようと、思わず小さな口を叩いてしまったのだ。しかも拳で、だ。

あぁ坊っアイム・ソー・ごめんなさいソーリー・マイ・サン」信江は痛みに喚くわが子の前に両膝を折ってその小さな相貌を覗き込んだ。

(うっ、こ、怖い・・・)その双眸にはいらぬ口唇は開くな、という恫喝の光が湛えられている。幼い息子は後ろに一歩よろめいてその気をやわらげるしかなかった。同時に「石田散薬」についての動揺もやわらげようと試みた。

石田散薬それ」とは、土方の実家が製造し土方が行商をしていた薬だ。効能はおもに打ち身擦り傷切り傷。酒とともに呑むのがよく効く方法とされている。土方はそれを浪士組の一員として京へ上洛する際に故郷から持参した。その後、新撰組として京で暴れていた際には実家から送られてきていた。それを打ち身擦り傷切り傷をこさえた隊士たちに分けていた。

 試衛館の仲間でその効能を信じているのは土方の懐刀の一振り、つまり土方の信奉者たる斎藤だけである。後の者はまったく信じておらず、いつでも呑まされる際には薬ではなく酒にありつける、ということにして呑んだ。土方に対して、皮肉屋の沖田などは「石田散薬それ」のことを「薬界の「豊玉宗匠」」と呼んで揶揄したものだ。

 そしてなにより、土方自身が信じていないところが面白いだろう。

「「石田散薬それ」を島田がまだもっているという。京時代のものをまだ・・・。

 ゆえに幼子は驚いた。いったいいつのものか?なにゆえ「石田散薬それ」なのか?あらゆる疑念が驚きの声となってでそうになり、そこを信江に殴られたというわけだ。

 信江も「石田散薬それ」を知っている。京で土方からきかされていたし三佐の家で原田や沖田からもきかされていたからだ。だが、そこはさすが柳生の女子おなご、幼子と違って冷静に対処できるというわけだ。


 この部屋はもともと納戸だった。ゆえに照明はない。木製の空き箱の上に蝋燭を置いている。その淡い光のなか、心やさしき巨漢はその大きな相貌ににんまりと笑みを浮かべてからいった。

「というのはさすがに時間ときが経ちすぎていてもはやその効力もなくなっているでしょう」

時間ときだけの問題ではない・・・)心中で突っ込みそうになったのを幼子はそう考えぬように努力せねばならなかった。視界の隅に母の拳が映ったのだ。さきほどの一撃は効いた。口中を二箇所切った。よくぞ鼻梁が折れなかったものだ。鼻血はでていないようだ。「石田散薬」の件だけでなく「叔父従弟を痛めつけた」ことへの制裁でもあったに違いない。いや、絶対にそうだ。

「昔、よく母がしてくれました。故郷では里芋でしたがさすがにここに里芋それはないので馬鈴薯ジャガイモで代用しました」

 島田はそういいながら布包みを軽くもちあげてみせた。

 いわゆる民間療法である。里芋は芋類のなかではカリウムが抜群に多い。それをすり潰して布に薄く延ばして患部に貼ると体内から悪いものを除いてくれるといわれている。本来はそこに小麦粉を混ぜるとなおいい。いわゆる芋湿布というわけだ。

「さぁお二人とも・・・」

 島田と信江は手分けして塗り薬や湿布による手当てを施した。当然のことながら幼子もそれを助けた。


「あとはゆっくり眠るだけですな。これでもひっかけてゆっくり眠ってください」手当てが終わると島田は葡萄酒ワインの壜を木箱の上に置き、満足そうに頷きながらいった。そしてはっとしたように太い指先で顎をかきながらつづけた。

「申し訳ありません。グラスを忘れました」

「いや、そのまま壜から呑もう。魁、ありがとう。それとすまなかった」「ありがとうございます、魁兄」 厳蕃と厳周は心から感謝した。


「坊、どうした?なにゆえ避ける?」

 島田は二人の枕元から一歩退いてから立ち上がると蝋燭の光の届かぬ暗がりに佇む小さな人影に呼びかけた。するとその小さな人影が暗がりから一歩前にでた。

 小さな人影にはわかっていた。そしてそのことは室内にいるほかの同族の者たちもわかっていた。

「なにゆえわかったのです、魁兄さん?」小さな人影はすばやく島田の足許に近寄った。そして巨躯をみ上げた。その声音は現在いまの坊のそれではなかった。

「なにゆえ・・・?」今度は口中でそう呟くと現在いまの坊でない坊は島田の太くて立派な右脚に縋りついた。

「癖だよ。坊、おまえは自身で気がついていない」島田は大きな掌で自身の右脚に縋りつく幼子の頭をやさしく撫でた。その声音は涙声になっている。

「おまえは以前、項と体躯の傷跡を隠す為無意識のうちにこうしていたのだ」

 島田はそういうと頭を撫でていないほうの右掌を胸元にもっていった。親指と人差し指がさっと胸元、着物のあわせめ辺りで交わった。

「着物のときにはわからなかった。が、おまえは軍服のシャツのときにも同じことをしていた。釦が喉元まであるにもかかわらず、だ。いや、わたしも気がついたのはたまたまなのだがね。そしていまもだ。あきらかにそのような仕種は必要ないであろう、坊?」

 島田の説明に、指摘された側の一族は驚いた。癖を見抜く洞察力はさることながらそうと悟らせなかったことも。

「魁、すまなかった。真のことを申せないことも・・・」厳蕃が床からいうと、島田はさっと掌を上げてそれを制した。「わたしはみなさんのように心中を容易によんだりできないですし剣術の腕がいいわけでもない。それでもこうして一緒にいさせてくれていることに感謝しているんです。わたしにできることは、周囲をよくみてなにか異変がないかあるいは様子がおかしくないか、そういったことをみ、把握してできる範囲で対処する、その程度のこと。えぇわかっています。わたしはそれを責めたり仲間たちに告げたりはしません。ですがこれだけはわかっていてほしい。わたしも坊を、この子を死なせたことが無念でならなかった。榎本総裁には申し訳ないが、自害すべきはお飾りだった近衛大将軍などではなく榎本総裁あのひとだ」涙声ながらそれはこの巨漢にしては激しい言だった。幼子は島田の脚にさらに縋りついた。まるで泣いているのを隠すかのように。


「宮古湾の海戦で利三郎らをかばったこの子はどてっ腹に風穴を開け、その傷を自身で焼いてはごまかし働いていました。いくら痛みに耐性があろうとうちなるものがおろうとその痛みや苦しみは尋常でなかったはずだ。みていて辛かった。いっそひとおもいに殺し、らくにしてやりたかった・・・」

 島田は自身の脚から幼子を引き剥がすとそのまま両膝を折って目線を合わせた。

「だが、わたしにはそんなことをする勇気や覚悟がなかった。ゆえにすべてを副長に押しつけたのです。あの人が一生涯そのことで苦しむことをわかっていながら・・・。坊、あのとき副長と話をしてくれたか?」分厚く大きな両の掌が小さな両肩を掴んで揺さぶった。涙と鼻水に濡れた小さな相貌が二度縦に振られた。

 腹の傷の失血で島田に無理矢理寝かされた際、叔父である土方と話をするように坊は島田に諭された。

 それは坊自身が計画し仕組んだ策をいよいよ実行にうつす前夜のことだった。

「副長のこの子に対する想いはあなた方が考えている以上のものです。副長をみていると、あのときこの子の立てた作戦に加担せずもろともに果てればよかったとつくづく思いしらされる」

 いつもなら大泣きするであろう島田はまだ泣いていない。泣きたいのを必死に我慢している。一度双眸から涙を溢れさせれば、伝えたいことを伝えられなくなってしまうと確信に近いものがあるのだろう。

 

 厳蕃はそれをみききしながら心が揺らいでいた。白き巨狼の言が思い起こされる。

「魁兄さんごめんなさい、ごめんなさい・・・」泣きじゃくりながら謝る幼子を島田はやさしく抱きしめた。「すまない、責めたかったわけではない。だが、わかるな坊?いつかは話さねばならない。おまえの身勝手でおまえの親友ともを苦しめるな。いまはおまえが子として父との関係を築き上げろ。父とも母ともその関係を密にし普通の親子として心ゆくまで過ごせ。その後は父の、親友ともの心の重荷と枷を取り払ってやって欲しい。それまではわたしも悪い子おまえのささやかな企みに協力するから」

 島田は幼子を、昔の坊をその大きな胸板に押し付けしっかりと抱きしめた。

「よかったな、戻ってこれて。副長の子としてともに生き、傍らで過ごせて真によかったな・・・」

 島田の二つのまなこからついに大粒の涙が大量に溢れだした。

 滝のようなそれは、もはやだれにも容易には堰き止められぬだろう。

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