衝撃の満身創痍
帰宅した柳生親子のぼろぼろの状態をみて全員が絶句したのはいうまでもない。
「『柳生の大太刀』の試練はあなた方二人をもこんなにするなどとは・・・」
一行のなかでもとくに斎藤は衝撃のあまり後ろへよろめいたほどだ。
「あいつのように古豪相手なら致し方ない、とはいえ・・・」永倉も動揺している。
「でもすごかったよ、たった二日で試練が終わったんだから」大人たちの足許でぴょんぴょん飛び跳ねながら伯父と従兄の勇姿とその手練のすごさを報告する幼子に、たった二日で試練を乗り越えた伯父従兄の苦々しい視線が向けられた。
「兎に角、しばらく休んでください。いま乗馬の稽古をしているところです」
土方はわが子を抱き上げながらそうすすめた。たった数日会っていなかっただけでわが子はずいぶんと成長したような気がするのは気のせいか?体躯の大きさではない、そのうちにあるものだ。
「そうもいくまい。この子とわたしは舞いを、息子には笛の練習が必要だ。義弟よ、例の話はすすんでいるかね?」そう尋ねてから厳周は「いたた」と呟いた。斎藤がすぐに肩を貸してやった。その息子には伊庭が義手のほうの肩を貸してやっている。
玄関先のことだ。若い方の「三馬鹿」がかいがいしく柳生親子の長靴の紐を解き、脱がしてやっている。白き巨狼のほうは専用の雑巾でしっかりと四本の脚の肉球を拭った。そうしないと信江に地獄をみせられることになる。
「ぬかりなく。ドン・サンティスの知り合いでハミルトン・フィッシュという政治家に渡りをつけてもらいました。使節団はすでに会談を行っており、条約の改定の為に新しい委任状とやらが必要らしく、急遽、大久保と伊藤が帰国しました。戻ってくるまではこの辺りを視察するそうです。ハミルトン・フィッシュに会うてはずもじきに整うはずです」
ハミルトン・フィッシュはニューヨーク州知事、アメリカ合衆国上院議員およびアメリカ合衆国国務長官を歴任した政治家だ。思慮深く改革と外交的な節度は多大でグラント政権でその大黒柱として高く評価された。当の大統領が悪名を残したのとは反対に最も優れた国務長官の一人であるとされている。
そして、フィッシュは政治家としての活動資金をドン・サンティスに援助してもらっている。つまり、俗にいうマフィアの子飼いの政治家の一人だ。とはいえ、フィッシュほどの辣腕政治家ほどになるとドン・サンティスも悪事関係に融通を利かせてもらう、ということは難しい。なにかあった際にささやかな便宜をはかってもらう程度だ。
「なるほど。では、まずは亜米利加の政治家から篭絡するとしようかな?」
体躯の痛みを我慢しつつその秀麗な相貌に不敵な笑みを浮かべると、そこに集う全員が「承知」と応じた。どの相貌にもやはり不敵な笑みが浮かんでいる。
「それにしても、あなたにも厳周にも顔には傷一つありませんが?」
土方は頭上からぶら下がっている洋燈の下、二人の相貌をためつすがめつ覗き込みながら尋ねた。すると厳周が苦笑しながら答えた。
「ええ、どうやら試練を与えし者の配慮のようです」
「兎に角無事でよかった」土方はほっと息を吐きだしていた。
『そうでもないぞわが主よ。とくに子猫ちゃんのほうは剣士としてのすべてを踏み躙られてひーひーと泣き叫んでおったからな』
「ええっ!」白き巨狼の思念はいつも全員を驚かせてくれる。いまも全員が柳生の大剣豪をいっせいに注目した。
とても想像できない。
「泣いてないよ叔父上は。とても格好いいだったんだから。兄上もすごかったよ」
土方に抱っこされた幼子がすかさず擁護した。
「まるで白い頭の鷲さんみたいだった」と話題を逸らすことも忘れない。
「そうかわが子よ、ではその話をくわしくきかせておくれ」
「まあ、親子揃って何事です?親子喧嘩にしては派手すぎますよ」
奥の台所から信江がでてきた。前掛けで両の掌を拭いつつ、まずは土方と息子に近寄った。
「母上っ!」息子が母親のほうへと腕を伸ばし、その頬へ小さな頬を近づけようとした。が、瞬き以下の間でその接近が止まった。母がさりげなく咳払いをした。子の父親似の相貌のやはり父親と同じように眉間に皺が寄った。「母上っ!」再度叫ぶと息子は母親の頬に接吻した。小さな口唇がかぎりなく触れるか触れぬ程度ではあったが。
「親子喧嘩などではありませぬぞ、姐御」生真面目に応じたのは尊敬する厳蕃に肩を貸している斎藤だった。
「「柳生の大太刀」の試練に見事打ち勝たれたのです、師匠も厳周も」
「それはようございましたわ兄上、そして厳周。ですがそんなにぼろぼろになってみなさんに心配を掛けるようでは、その試練もいい迷惑以外にありませぬ。「匹夫の勇」という清の国の故事をご存知ですか?」
「やめないか、信江」夫が控えめな窘めを無視し、妻は腰に掌をあてた姿勢でぼろぼろになった親子の前に立った。
「すまない、信江。みなもすまなかった、真に身勝手だった」「申し訳ありませぬ」
柳生親子は即座に頭を下げた。妹あるいは叔母を怖れてのことではない。そのいうところ、いちいちもっともだと理解しているからだ。
「一さん、八郎さん、お手数ですが二人を寝室に放り込んで頂けますか?」
「承知。さぁ師匠、歩けますか?」「一、わたしはそこまで重傷ではないぞ。いたたた・・・」
「師匠、ゆっくりでいいですから」
柳生親子が運ばれてゆくと、信江はつぎに白き巨狼へと矛先をかえた。
「壬生狼、お疲れ様でした。台所に大好物を用意してありますよ」
『おお、さすがだ信江・・・さん』白き巨狼はそそくさと奥へ向かって歩きはじめた。カチカチと爪が廊下を掻く音が響き渡る。
「さあ、みなさんもどうぞ。それはそうと壬生狼、ちゃんと脚を拭いて下さいましたか?」
その一言で偉大なる獣神の歩が止まった。玄関ホールに佇む人間たちへ体躯をくるりと反転させた。
『はい、信江さん』太くてふさふさの白い尾っぽが右に左に振られている。
まるで子犬ちゃんだ、と厳蕃でなくとも全員一致で思った。