童(わらべ)の祈りと信念
厳蕃は体躯中の痛みで動くことがままならなかった。このときばかりはいつもいい合っている白き巨狼もなにもいわず、ふさふさの毛に被われた体躯を横たえ、厳蕃の寝台がわりになってやった。
横たわった白き巨狼に背からもたれかかった姿勢で厳蕃は空をじっと眺めていた。指一本動かすのも億劫だった。
いなくなった厳蕃を案じ朱雀が飛翔してきた。とはいえ、土方もおおよその検討はつけていたのか、あるいは妹の信江の配慮なのか、朱雀は狼神から言伝を受け取ると早々に仲間の元へと戻っていった。
息子のほうは若いだけあり前日あれだけ痛めつけられたにも関わらず二度目の試練に果敢に立ち向かっていた。
痛めつけられたのは父親のほうがよほどひどかったに違いない。衣服は破けぼろぼろなのはいうまでもなく、体躯中の裂傷や打ち身は控えめにいっても尋常ではない。あばらは二、三本いってしまっているし右肩も脱臼している。
否、体躯の傷や疲労は時間が治してくれる、が、精神はそうはいかない。
甥は見事なまでに精神を砕いてくれた。それは剣士としてだけではない。人間として叔父として、それらすべてにおいて甥は立ち直れぬほど打ち砕いてくれたのだ。
『まだ泣いておるのか?いい大人がまるで小さな童ではないか?』
背に白き巨狼の思念がぶつかった。いつもと違いその言のうちにいたわりが存分にこめられている。それがまた精神に沁みる。いっそいつものように笑い飛ばしてくれたほうがよほど慰めになるだろう。
『馬鹿な子らだ。真に馬鹿な子らだ・・・』
我慢出来ずに口唇からより一層嗚咽が漏れた。涙と鼻水が止まらない。あのときの甥よりひどい筈だろう。
『人間は真に面倒だな。家やら立場やらに縛られ、できることすらできぬとは』
何度もしゃくり上げつつ痛む腕を相貌の上に置いた。今朝は快晴で陽光は涙眼に痛みすら与える。
「あの当時わたしの頭にはあの子を殺すことしかなかった」またしゃくり上げてから言を紡ぐ。「なにが護り神か?あの子を救う術は死より他ないとは・・・。やはりわたしは暴れるだけが取り柄の馬鹿なのだ・・・」ひっくひっくとしゃくり上げつづける。
「あの子はいつだって生きたかったのだ。どのようなときでも。それを、それをわたしは・・・」
『あぁそうだな、あの子はいつだって生に前向きだ。他者を生かしそして自身も。柳生の子、だからではないのか?』
それこそが活人剣の極意。それはなにも戦いの場、白刃を振り翳す場においてだけの意味ではないのだ。
『おまえたちの師が蝦夷にあの子を捨てにきたとき、わたしはそれをじっとみていた。すでにわかっていたからだ。粗末なおくるみに包まれ、あの子は森の中に置き去りにされた。わたしが近寄るとあの子もまたそうなる運命にあるのをわかっているかのようにわたしをみて微笑んだ。まったく泣くこともなく、だ。そして小さな腕を伸ばし小さな小さな掌でわたしの左前脚をしっかりと握った。その力強さに驚かざるをえなかった』
そこで思念を止めた。つぎにいうべきかいわざるべきか、白き巨狼はめずらしく逡巡した。そしてついに思念をついだ。
『蒼き龍に大神の格はなかった。大国主命は日の本そのものの祖神であるが大神はあくまでも蝦夷の民が信仰する神だ』
「つまり大神はあの子自身、降りたわけではなくあの子が大神になったというわけなのだな?」
『そうだ。ゆえにおまえや白き虎の関係より複雑なのだ。そして、あの子自身が武の神であり軍神でもある。戦いの場においてのあの子の言の一つ一つが敵味方を鼓舞し、あるいは敵の意気を粉々に打ち砕く。もっとも、あの子はそれは蒼き龍の力だと思い込んでおるのだがな。それと、いま話した力と今回の力はまた別物だ。厳蕃、おまえが完膚なきまでにやられたのは、あの子の剣士としての力量であることを申しておく。わたしが申したかったのは、自身の神格に気づいておらぬあの子はだれよりも生を重んじ、それを愉しもうとしているということだ』
「そのあの子は蝦夷でより多くの人間を救う為に自らの頸を刎ねた・・・」
『ふんっ、あの子はそれを義務としたからだ。あの子の感情は違う。新撰組の仲間、言を交わし接してきた知人を護る為、なによりあの子の精神に救いの掌を差し伸べた土方を護りたいが為だ。だがあのとき、刃を頭上高く振り翳したとき、あの子は十歳の童に戻った。柳生俊章に与えられた命を行使することを声高々に宣言した。恐怖を紛らわせ自らを奮い立たせる為、そして例のことを悟られぬ為に。そうしながら土方とわたしをみた。瞬きする間位のことだ。そのとき、十歳の童のあの子はその心の奥底で念じてしまった』
神の力によるものだろう。厳蕃にはそのときの光景がみえていた。白き巨狼の視線でそれをみていた。
そして同時に知った。自らが拾い育てた人間の子の人生の終焉を目の当たりにした育ての親もまた嘆き悲しんでいることを。自身らがそうなるように仕向けているにもかかわらず、育ての親は育てた子が自害することを許せなかった。子にそうさせた人間が許せなかった。いっそ淘汰しつくしてやりたいとさえ思っていた。
感情がそう思わせているのだ。
『「生きたい」・・・。それはこのわたしでかろうじて感じとれた程度だ。このことはあの子には申しておらぬ。あの子自身わかっているかどうかもわからぬ。だが、問題はそこではない。それを土方も感じとったことだ』
「なんだ、と?」厳蕃は腕で涙を拭うと起き上がろうとした。途端に体躯中が悲鳴を上げた。あきらめざるをえないほどだ。
『無理をするでない。迷ったがおまえには話しておいたほうがよいと判断した。おまえの義弟はあの子に依存しきっていた。近藤とやらが死んでからはよりいっそう。おまえの義弟の絶望はおまえが考えている以上のものだ』
「くそっ・・・」悪態をつきながら涙が止まっていることに気がついた。自身のこと以上に気がかりなことができた所為だ。
『ああ、無論真実を話すことは土方の心を救う唯一の手立てだ。だが、その瞬間に親子でなくなる。信江の方は女だ。自身が腹を痛めて生んだわが子、それが辰巳だろうが勇景だろうが頓着せぬだろう。それに信江はわが正妻の妹、巫女の力があるばかりかできた人間だ。ある意味ではおまえら依代以上にな』
息子の厳周につづき妹まで褒めてくれるとは・・・。厳蕃は異国のお天道様をみながら驚いていた。
『だが土方は違う。あの主は告げた刹那にあの子とは親子でなくなる。あの子はそれを怖れているのだ。ふんっ、あの子自身土方を父としてよりかは主としてみているのにな。おかしな話ではないか、え、子猫ちゃん?』
一番最後の自身に対する呼称で厳蕃は自身の息子の試練が終わったことを知った。