試練を与えし者と与えられし者
眼前にいるのは十歳の童などではない。ましてや柳生の剣士などでもない。それをいうなら戦人でもない。さらには武神・軍神の類でもないだろう。
人間だけではない、神をも超越している。
鉄はなにかにつけ強さの順序をつけたがる。もはやこれでなにが一番か、それどころか最強かがわかった。
同時に競い合える域ではないということも。
悔しくはない。否、まったくないというのは嘘になるだろう。尾張の道場で真剣で勝負して以来ずっと目標にしていたのだ。
向き合っていたのはつねに自分自身だけではなかった。自分自身と小さな剣士だった。
京の疋田景康の道場でも愉しめた。あのときもまた互いに力の半分もだしてはいなかった。互いにそれを知りつつそれでよかった。
だが、いまは違う。違いすぎる。
息子や一の気持ちがいまになってはじめてわかった。
愉しむどころか地に立っているのがやっとだ。よく倒れないでいられるとさえ思える。この馬鹿長い太刀を振れているのは、なにも相手の太刀筋をよんでいるのでも防いだり攻撃しているのでもない。
ひとえに本能だ。剣士としての本能が勝手に両の腕を動かし両の脚をさばいているだけだ。
為す術もないとはまさしくこのことに違いない。すでに腕どころか体躯中が傷つき疲れている。
「どうしました、尾張柳生の前当主よ?これまでいったいなにをされてきたのです?これならば現当主のほうがよくやっていますよ」
試練を与えし者は「村正」を打ち振りながらそう耳朶に囁いてきた。
「あなたの息子は真によくやっています。あなたにできぬわけはない。さあ、あなたも愉しんでください。辰巳との勝負はそうそうできるものではありませぬぞ、叔父上っ」
簡単にいってくれる。愉しみたくとも愉しめぬ。やりたくともできぬのだ。
「村正」の刃がこの馬鹿長い太刀のそれを打つことはない。そしてやはり刃がこの体躯を斬り裂くことはない。皮膚や身が裂けるのは剣風によるものだ。
辰巳は、武器を穢すことをなにより嫌う。遣う武器は自身の掌。刃金同士を打ち合わせ、肉を斬るなどということは許されざる禁忌としている。
暗殺など命じられたとき以外は。そのときでもかぎりなく刃金に触れぬようするだろう。唯一愛用のくないだけは多くの血を吸っている。が、ほとんどそうとは感じさせないのはそのくないすら最小限にしか遣わぬからだろう。
自身の心の臓を刺し貫いたり頸を斬り落としたことが日本刀にまともに血を吸わせたこととは、皮肉にもほどがある。
そのように考えていたら皮肉めいた笑みが浮かんでしまったのだろう。試練を与える側も皮肉めいたそれを浮かべた。もはや相手の心中をよむことなどできるわけもない、相手とは違って。
両の腕は感覚がなく、自身のものでなくなっている。それを突きだしたつもりだ。するとその馬鹿長い剣の先端を相手はしっかりと掴んだ。活人剣の応用たる指と指の間に挟んだのではない。右の掌でしっかりと握られてしまった。
そう、試練を与えし者は「村正」を左腕一本で打ち振っていたのだ。
「さすがです、叔父上」その一言が疲れきった心身に沁みる。なにがさすがだ、と思わずにはいられない。
馬鹿長い太刀がわたしの両の掌から離れた。相手が剣先を掴んで引っ張ったのだ。さして強くひっぱられたわけではない。それが自身の両掌から離れるに任せるしかなかった。
もはや抗う気力も体力も残っていない。
両膝から力が抜け、地にへたりこんでしまった。こんな醜態はいったいいつ以来か?
まだ剣術を遣りはじめた時分、姉上はわたしが動けなくなるまで散々に打ち据えた。ふだんはやさしい姉上があのときはまるで鬼のようだった。いまではその意味がわかる。柳生の嫡男としての覚悟を、剣士としての心気を最初に叩き込むためだ。あれがあったからこそいまの自身がある。
その姉上の息子がそれらを思い起こさせてくれるとは・・・。
試練を与えし者は「村正」と「柳生の大太刀」に謝辞を送りながらそれぞれの鞘に納めた。それらを丁寧に地に横たえると不意に振り返ってこちらを向いた。
そのとき、「柳生の大太刀」がないにもかかわらずまだ辰巳であることにわたしは気がついた。
「叔父上・・・」座り込んでいるわたしの前までくると辰巳はみ下ろした。月明かりの下、辰巳の隻眼が深くて濃いのがよくわかる。辰巳は自身の金色の左瞳を眼窩より引き摺りだしそれを岩倉に喰わせた。例の宴のなかでそれは一番衝撃的な場面だった。
辰巳の握り締める両の拳が震えている。その片方の拳が軽く突きだされてわたしの胸に当たった。疲れきった体躯はたったそれだけの衝撃にも耐えられず、わたしはそのまま後ろへ倒れてしまった。仰向けに倒れるときに月がみえた。それは西の方角へと追いやられようとしていた。
小さな体躯がわたしの胸の上に馬乗りになった。
「叔父上の馬鹿っ!叔父上の馬鹿っ!」
辰巳は、そう叫ぶなりわたしの胸を両の拳で叩きはじめた。さほど強くないそれでもいまの傷つき疲れた体躯ではきつい。だが、それ以上に驚きだった。同じことを叫びながらわたしの胸を打ちつづけている。しかも泣きながらだ。辰巳が拳を振るうごとに涙がわたしの相貌に降りかかる。
辰巳が?混乱せざるをえない。勇景に戻ったのかと思ったほどだ。
「火のことなどどうでもよかった。どうして、どうして連れていってくれなかったのです?あのときみていたのなら江戸柳生から連れていってくれなかったのですか?」
わんわん泣きながら訴える辰巳はたった十歳の童だった。
「叔父上の馬鹿っ!なにゆえ一緒に尾張に連れていってくれなかったのですか・・・」
そしてついに辰巳はわたしの胸にちいさな相貌を押しつけそのまま泣きじゃくった。
わたしは自身の腕を叱咤し、やっとのことでそれを伸ばすとわたしの胸に相貌を埋めて泣きつづける辰巳の頭を撫でた。外套の下はシャツを着ているだけだった。いまやそのシャツは冷や汗と辰巳の涙とよだれとでぐちゃぐちゃに濡れていた。
「そうだな、そうすればよかったのだ。辰巳、そうすればよかったのだな」
ことはそんなに容易ではない。それができたのならそうしていた。それができなかったことは辰巳もよくわかっている。わたしと同じくらい辰巳もわかっているのだ。
だが、感情はそうはいかない。たった十歳の童の感情は・・・。
息子と子犬ちゃんがくるまで、わたしと辰巳は泣きながら同じことを繰り返しいいあっていた。