蒼き龍の降臨
その夜の墓前での描写に至ると、当事者以外その場にいる全員が一様に眉を顰めたのはいうまでもない。
「「豊玉宗匠」、申し訳ないですが、いくら蛍が乱舞する美しい光景の中とはいえ、それは人間としてどうかと思いますが」
「いや、土方さん、気持ちはわからないでもないが、それは漢としてもどうかと思うが」
「わかってる、わかってるよ・・・。ってか、総司、いちいちその呼び名でおれを呼ぶんじゃねぇ」
「だって、土方さんといえば・・・」
「待てっ、待つんだ」いまだすっきりしない様子の厳蕃が、不毛な遣り取りを中断させた。その隣では、幼少より真面目に剣を振りつづけている青年が、真っ赤になってなかば俯いている。よほど叔父叔母の性描写が刺激的だったのだろう。
「なんてことをしでかしてくれたのだ・・・」厳蕃は、嘆息しながら両方の掌を後ろに投げ出し、そのまま体重をかけてのけぞった。
「どう考えてもそんな神聖な場所でいくら女房とはいえども・・・」ここぞとばかり、なかば面白がって責めたてる沖田。なんら昔とかわらぬからかい。土方がやり返そうとすると、再度、厳蕃がいった。その声音には切羽詰ったものがある。
「ああ、そこはわたしもどうかとも思うし、さりとて気持ちはわからないでもない。だが、いま問題なのはそこではない。そこではないのだ」
それから姿勢を正した。双眸がすっと細められ、鋭い視線がまずは土方へ、ついで妹へと向けられる。右側のそれは、いまでは元の色に戻っている。
「なにか異変はなかったか?あるいは感じなかったか?」
「お袋さんに、あいつのお袋さんと・・・。ああ、そうか、義姉上になるのか、兎に角、直接話しをして謝罪しました。その後、あいつから預かっていた懐刀と「千子」が奇妙な光を・・・。もしかすると、蛍の光だったかもしれませぬが・・・」
板の間に上がって座り込んでいる狼神も人間と同じように眉間に皺がより、それはまさしく土方似であったが、その白狼が唸り声を上げた。
「降りたな。狼神よ、ぬしもそう思うだろう?」
「降りた?なにが降りたと?若よ、もったいぶらんとはっきりいいなせぇ」全員に茶を配りながらぴしゃりという三佐。この柳生の高弟には、さしもの厳蕃も妹の信江も弱いのだ。
若は止めてくれ、という切なる願いはすでに数十年前に叶わぬということで諦めている。茶の礼を口中で述べてから厳蕃はつづきを声にだした。
「降臨したということだ。くそっ、よりによって・・・・。だからこれも・・・」自身の胸元を左の親指でとんとんと叩く。
「落ち着いてくれたわけか。間違いない、これも気がついたのだ、再び降臨したことを・・・」
静寂。土方は無意識のうちに妻を自身へと引き寄せていた。その妻は土方に寄り添い、両方の掌をそっと自身の腹部に添えた。
神の降臨・・・。にわかには信じ難い。それは夫の側にしても同じだ。「あいつが、あいつが・・・?」何度も呟く。
『やられたな』獣の神が唸った。『いいや、仕組んだのは蒼き龍、あるいは大神だ。それに母神が実妹に降ろしたか・・・。ふんっ、よほど柳生の血筋を、そして土方という人間を気に入ったらしい』大きな口を歪めてさもおかしそうに笑う。
「勘違いするな、義弟よ。あの子ではない。あの子のなかにいたもの、これの弟だ」再び自身の胸元を叩く。「姉上・・・。どういうおつもりか?」深い溜息。仕組まれたことを阻むことなどできるわけもない。
まるで話しがみえず、文字通り双眸を白黒させている実の息子に、厳蕃はある一つのことを除き自身のことも含めて手短に説明した。
「わたしは偉大なる剣士の息子であるばかりか、神の子でもあるわけですか?」
厳周は父を心から尊敬し、なによりも大切なのだ。その息子の讃辞にはさしもの厳蕃も面喰ったようだ。
「いやいや、前者はただの身内贔屓であろう?後者はただのかいかぶりだ。神など、わたしにとってもあの子にとっても、厄介物以外のなにものでもないからの」
依代の苦悩。だが、そのお陰でが助かった生命が確かにある。想いや希望を将来へと繋げることができた者が確かにいるのだ。
土方も沖田も原田もそれを改めて感じた。
しばしの沈黙の後、兄は意を決したように実の妹とその夫に向かっていった。それは懇願にも似たものだ。声音には悲しみと諦念とが滲み出ている。だが、内容はきわめて残酷だった。誰にとっても。
「残念だが堕ろすべきだ」再び沈黙。
土方はそっと妻の掌を握り締めてやった。その掌は女性のものとしては分厚い。長年の剣術修行の所為であるのはいうまでもない。それがかすかに震えているのが感じられた。神の子を宿したと告げられた途端、それを堕胎しろというのだ。無理もない。
「わかっている」心中をよむことのできる厳蕃は、ここにいる全員の非難、疑問にその身を晒されつつ応じた。
「理由は幾つもある。あの子の生き様を、死に様をみてきたおぬしに多くを語るつもりは毛頭ない」土方をしっかり見据えて告げる厳蕃。うちなるものがまた騒ぎだそうとしている。やめろ、そうはさせぬ。これ以上、好き勝手はさせぬ。うちなるものを恫喝する一方で、それとは違う感覚も確かにある。それがこの判断が正しいか否かを迷わせる。
「この前も柳生の血筋であった」不意に話題を逸らした。なにゆえかそうしたくなったのだ。そうすることで、この問題を、判断を先延ばしするかのように。
全員が静かに聞いている。三佐の家の周囲の自然も、いまでは静けさを取り戻し、雀の声や子猫の鳴き声がきこえてくる。村の子どもたちの笑い声が風に乗って漂っている。
のどかな暮らし、平穏な日常・・・。
「江戸柳生の祖 柳生宗矩、長男の三厳。父親のほうは、その兄 宗章が米子藩の家老のいざこざに巻き込まれて討死にしたことにしてじつは実弟と成り代わっていた。一応は将軍家の剣術指南役にして一大名だからな。まさかその剣術指南役が実子と互いの首を刎ねて死んだ、などという事実を知られるわけにはいかなかったわけだ。すなわち、うちなるものの所為で死なねばならなかったわけだ。そしてあの子。わたしもそうだ。いつどうなるかわからぬ・・・」息子と眼が合った。秀麗な相貌に驚愕の表情が浮かんでいる。
「それをわかっていて生むのか、信江?生まれてくる子に罪はない。いいたいことはわかっている。だが、わたしたちは人間を粛清し、戦を統べ、次に繋げねばならない。それがわたしたちだ。生まれてくる子も例外ではない。わたしたちは人間ではないのだ・・・」不意に押し黙る。
想像以上に、否、そもそも想像すら難しい。その存在じたいが、そしてその苦悩悲哀が。
「うるさい、だまれっ!貴様らの思うままにさせてなるものかっ!」
自身の胸板を文字通り掻き毟り、厳蕃は自身のうちなるものを叱咤した。
「わかるであろう、信江?生まれてくる子は|あの子やわたしと同じく生き地獄を味わった上に早死にする」
全員がはっとした。「そういうことだ。わたしも例外ではない。心身ともに疲弊し、いずれは喰い殺される。それをはばむ唯一の手段がどういうものか、義弟よ、おぬしは身をもって知っておろう?」
いわれるまでもない。自身の眼前、掌を伸ばせば届く距離で、自身のかけがえのない存在はみずからの頸を「千子」で刎ね飛ばしたのだ。
あの凄惨な一場面は、いまだ毎夜夢となって現れる。
「父上・・・」厳周が呟いた。その息子の肩をぽんと叩くと厳蕃はふわりと笑った。
「すまぬな、厳周。これがわたしの業・・・。わたしの運命・・・」
「兄上、わたしが産むことで、兄上にも再び枷がかかるのですね?」
唯一の女性は、すくなくともこの場にいる漢たちよりよほど毅然としていた。
「馬鹿なことを・・・。わたしのことなど関係・・・」「なれば、兄上。あの子のときのように、わたしたちの生まれてくる子もかわらず護ってください。今度は、すくなくともあの子のように人間の愛情から遠ざけられることはありません。父と母の、伯父や従兄の、多くの兄たちの、そして狼神の、愛を授けられます・・・」
「信江、いい加減にしろ。一時の感情で人間の一生を、生命そのものを弄ぶものではない。もはや生まれてくる子だけの問題ではないのだぞ。生まれてくる子とわたしが絶つであろう生命はどうなる?」
「厳蕃殿、その生命はたとえあなた方が奪わなくとも違う理由や手段で絶たれるのではないのですか?それに、けっして絶つばかりではないですよね?与え、育み、繋げる生命もありますよね?」
沖田が膝を進めた。その隣で、やはり原田も同様に迫る。
「おれたちのように・・・。他にも大勢いる。厳蕃殿、授かった生命を絶つと?やめてください。おれたちの存在も否定されることになる」
それでなくとも表向きは死んだことになっているというのに・・・。原田は自嘲気味に乾いた笑声を上げた。
厳蕃はずっと押し黙っている義理の弟を、この問題を生み出した張本人をみた。眉間に寄った皺、そしてそこにある深く濃い色の瞳・・・。そして、その心中には・・・。義弟だけではない。この場にいる全員が、生まれてくる子がなんなのか、なにを期待しているのか、それが痛いほどよめた。
「皆、勘違いをしているようだ。生まれてくる子は、あの子のいうところの妖であってあの子ではない・・・」
痛いほどの沈黙の中、実際にはさほど時間は経ってはいなかったが、土方は眉間に皺を寄せたまま黙考していた。否、すでに結論はでている。一つ頷いてから義理の兄、それから白き巨狼を順にみた。
「承知しています。義兄上、それから狼神、どうかご助力を。信江、そして左之、総司、おれと生まれてくる子を助けてくれ。このとおり」
土方はなんの躊躇もなくその場で両方の掌をついて頭を下げた。その土方の性質を知り尽くしている沖田と原田は、心中驚いただろうが表情にも口唇の外にもそれをだすことはなかった。
「覚悟を・・・」
しばしの沈黙の後、ようやっと柳生厳蕃が口唇を開いた。諦念をその秀麗な相貌に浮かべながら。
「息子がうちなるものに意識を喰いつくされそうになれば、その前に頸を刎ね飛ばす覚悟を。それをいま、ここで約定してくれ。厳周、おぬしにはこの父の頸を刎ねる覚悟をしてもらわねばならぬ」
土方も厳周も返す言もない。とくに厳周は、つい先ほどまでなんの事情もわからなかったのだから無理もない。それをそのときがきたら父の頸を刎ねよ、とは・・・。
「正直なところ、それができるだけの力も覚悟ももてませぬ。まだなんの心の準備も構えもないのですから。いまここで約定できるのは、生まれてくる子とともにあり、生き、せいいっぱいの愛情を与え、すこしでもうちなるものとの共存あるいは反目を和らげる力になることです」土方は姿勢を正し、叩頭したときと同じように何の迷いも躊躇もなく毅然と宣言した。
ああ、この漢なら、生まれてくる子とわたしをあるいは救ってくれるやもしれぬ・・・。 厳蕃は自身の、人間としての直感に従う決心をした。
「わたしはおぬしを信じ、ついてゆこう。土方歳三、おぬしは「鬼の副長」と呼ばれていたときく。鬼が妖を否、神を従えるのも面白いかもしれぬ。存分にやってみるがよかろう。生まれてくる子もあわせれば、すくなくとも武と戦の類の三神が揃う。それらを見事統べてみよ。そして、生まれてくる子とわたしの精神を救ってほしい・・・」
一蓮托生・・・。うちなるものどうし、うちなるものとだけではなく、人間どうしの繋がりにもいえることか?それは生者どうしだけでなく死者との繋がりにおいてもいえるに違いない。
そう信じよう・・・。せめて生まれてくる子には、思う存分その生を愉しみ、全うしてもらいたい。 あの子よりも存分に・・・。




