八話 19歳 7
祭りの日がやってきた。
朝食を終える頃になると、外は早くもざわざわと騒がしい。子どもたちの歓声や売り子たちの呼び込み、祭りの高揚が壁越しにも伝わってくる。
私はそわそわと部屋の中を歩き回っていた。正確に言えば、それこそ3日前から落ち着かない気分だった。未だにロイドが本当に来るのか疑っている。
それでも来ると仮定して準備せざるをえない。服はどうしようか。曇り気味の鏡の前で次々に服を体に当てていく。これにしようか、いやこっちのほうが……?
散々悩んだあげく、シンプルなワンピースを選んだ。瞳の色に合わせた薄い紫色に、花がらの刺繍が施されている。
着替えた私は、食堂で来るのか知れない来訪者を待っていた。朝食後、父と母は仕事に行った。家に誰もいないことがこれほど有難かった日はかつてない。
ドンドンとノッカーが鳴らされて、私は雷に打たれたように立ち上がった。ぎくしゃくと玄関の扉を開けると、茶髪に眼鏡姿のどこかで見たことのある変装をしたロイドが立っている。
我が家の軒下に王太子殿下がいる光景は、まったくもって現実味がない。
「ロイド様、本当に来たんですね……」
「もちろんだ。さあ、行こうか」
ロイドは心なしか浮き足立った様子で言った。
「私のことはロイと呼んでくれ」
「ロイ様、ですか?」
「様は要らない。敬語も不要だ」
「無理に決まっているではありませんか……」
呆れ顔を向けるもロイドはどこ吹く風で通りへと歩き出した。
こうして共に歩くのはルクサンディ以来だなあと思い出していた私は、もしやと恐る恐る尋ねる。
「もしかして、護衛の方が近くにいるのではありませんか?」
「案ずるな、2人しかいない」
「どこに安心する要素があります?」
何でもないようにロイドが言うのに、もはや笑えばいいのか呆れればいいのかわからない。
私は警戒するように辺りを見回したが、それらしき人は見当たらなかった。私なんかに容易く悟られるような人間は護衛をしていないということだ。
「何がしたい? 屋台で食べ物を買おうか」
私に聞きながら、ロイドは自分こそがそうしたいように目を輝かせている。
こんなロイドは初めて見たかもしれない。私はくすりと笑った。
こうなれば楽しむだけだ。
「あそこの串焼きが美味しそうです」
「いいな、それにしよう」
私が財布を出す暇もなく、ロイドが店主に硬貨を渡して商品を受け取る。
「エルーシャの分だ」
「ありがとうございます」
ロイドが早速串に刺さった肉に齧りついた。豪快な食べ方なのにどこか上品に見える。
私も汁が滴り落ちそうになっている肉を頬張った。塩だけのそっけない味付けだか、焼き立てだというだけで格別な美味しさがある。
先にロイドが食べ終え、続いて私も食べ切ると、店主に串を返して歩みを再開する。
人混みの中を先に行くロイドが振り返り、手を差し出した。いいのかしらと少し迷うが、歩きにくいこともあってその手を取る。
前世で何度も繋いだことはあったが変な気分だ。
途中で出店を冷やかしながら進んでいたとき、派手な装飾を施された建物が目に入った。
「あ……」
「どうした?」
私の声に、視線を辿ったロイドがその建物を見る。
「劇場か?」
「今公演しているお芝居が気になっていたんですけれど、そういえばもうそろそろ公演期間が終わってしまうなあと思いまして」
「今日もやっているのか?」
「多分……」
ロイドがチケット売り場へ歩いていく。売り子に聞くと、後方の席なら残っているらしい。
「一緒に観ようか」
「よろしいのですか? 恋愛劇ですよ?」
「……寝ないように努力する」
神妙な面持ちで言うのに笑い、チケットを買う。
劇場の中に入り、外とは打って変わった暗がりに目が慣れるのを待てば、席はおおかた埋まっているようだった。
後ろから2列目の席に座るとギイと木の軋む音が鳴る。ロイドが座ったことがないような簡素な椅子だが不快に思わないだろうか。
横目でロイドを盗み見ると、売り子からもらった演目案内に目を通していた。椅子については特に気にしていないようだ。
ほっと安心した私の視界を見たことのある顔が掠めた。扉を押し開けてちょうど入ってきたのは、ロイドの護衛騎士のアルバだ。一瞬目が合った気がしたが、アルバは何もなかったように目を逸らし、少し離れた最後列の席に座った。
……気づかなければよかった。いると知ってても見えないうちは頭から締め出せるが、一度認識したら嫌でも意識してしまう。
祭りに浮かれている我々を見てアルバがどう思っているのか、想像するだけで怖い。
しかしひとたび幕が上がってしまえば、私は芝居に夢中になった。
仮面を着けた主役の男が舞台の端から端まで駆け回り、ヒロインに愛を囁き、悲喜を朗々と歌い上げる。ライバルと闘ってその剣を跳ね除け、最後に仮面を脱ぎはらう。
役者たちの熱演は、期間限定で終わらせるのがもったいない。
劇が終わり、惜しみない拍手を送る。まさか王太子殿下が観ているとは思わない演者たちは、晴れ晴れとした表情で頭を下げていた。
劇場から出ると、通りはさらに人が増してごった返していた。
大通りから外れて人混みを避けながら、目的なく歩く。
「素敵でしたねえ……」
私が夢見心地に呟くと、ロイドは肯定だか否定だかわからない相槌を返した。わかってないわね、ここは何と思っても頷いておけばいいのよ。
「エルーシャは、意外と恋愛をモチーフにしたものが好きなのだな」
「意外とは心外ですね。恋愛小説だって恋愛劇だって好きですよ」
「あなたはいつも仕事を優先しているように見えたから、てっきり恋愛など興味がないと思っていた」
「馬鹿言わないでください」
「ば、馬鹿……!?」
私の暴言にロイドが衝撃を受けている。
「恋愛に興味がなければロイ様のご結婚に口を出そうなんて思いません」
「たしかに……」
ロイドは未だ衝撃抜け切らぬ様子で頷いた。
「あら、見てください。絵描きがいるみたいですよ」
張り出した布の軒先で、一人の男がキャンバスを並べている。見ている人は誰もいない。
私は一つの絵に吸い寄せられるように近づいた。ぼさぼさの頭髪をした青年は、新しい客に声をかけることもなく無言で頭を下げた。
その絵はまるで、深海から空を仰ぐようだった。深海なんて誰も見たことがないはずなのに、どうしてかそう思う。
明暗の異なる藍色が何重にも重ねられ、不思議な色合いを作り出している。そこへ一条の光が柔らかく差し込み、あたかも天へといざなっているかのように見えた。神秘的で、目が離せなくなるような魅力。
私は興奮を抑えて振り返る。
「まるであなたの瞳のようね、ロイ……」
自分が何を口走りそうになったか気づいて、私は固まった。
けれどロイドは気にした様子もなく、私の隣に腰を屈めて首肯する。
「そうだな。私は抽象画はよくわからないが、これには何か惹かれるものを感じる」
「そ、そういえばロイ様は写実画のほうがお好きでしたね」
「……そんなことを言ったことがあったか?」
「いやですねお忘れですか? お話しされていましたとも!」
口を開いたらとんでもない言葉が飛び出した。私は断言して続く追及を打ち切った。
疑念の残るロイドの目から逃れるように絵画へ視線を戻すと、絵描きに問う。
「この絵はおいくら? 手持ちのお金で払い切れないかもしれないけれど、買います」
「あ、ありがとうございます」
言われた金額は決して安くはなかったが、たまりにたまった貯金を思えば問題ない。
「契約書をくださいますか? 足りない分は後で支払うので、支払いが完了したら納品してほしいのですが」
「わかりました」
頷く絵描きをロイドが制止した。
「不足分は私が払う」
「そんなわけにはまいりません。私が欲しいのですから私が払います」
焦る私を無視して、ロイドが絵描きに名前を尋ねる。
「ウーヴです」
「ウーヴ、私がパトロンとなろう」
突然の申し出に絵描きは驚いたが、私はもっと驚いた。何を急に言い出すの?
口も目も大きく開けて唖然とする私に、ロイドは静かに微笑んだ。
「ラヴィニア王女が気に入った画家は必ず大成した。私が支援しよう」
「……ありがとうございます」
その言葉の意味を理解できないまま、私はお礼を言った。
考えるのを放棄したいのに、いつのまにか思考に耽っている。歩きながらそんなことを繰り返していたせいで、ロイドとの会話は知らず途切れ途切れになっていた。
これではいけない。重い空気を払拭するように、私は無理やり弾んだ声をあげた。
「ロイ様、先ほどの演劇はとっても素敵でしたよね?」
「ああ、そうだな……?」
今度は何を言い出すのかという顔で、ロイドが一応同意する。
「あんなドラマチックな恋がしたいと思いましたよね?」
「……うん?」
「うん? ではありません! 仮面をつけた謎の男と恋に落ち、素性も容姿もわからない男にどんどん惹かれていくけれど、あまりに現実的ではない恋に一旦は諦めようとするヒロイン。一方彼女と結婚するために両親を説得し、ライバルを退け、ついに求婚しに行く主人公。彼が仮面を外すと……なんとその国の王子様だったなんて!」
「そうだな、そんな内容だったな……」
「私、気づいたのですけれど」
「……碌なことではない気がする」
露骨に顔をしかめたロイドを無視し、拳を作って力説する。
「男女の出会いはドラマチックでなくては! だからロイ様も仮面をしましょう。仮面をつけて運命の女性にばったり出会いましょう」
「どうしてそう突拍子のないことを……。仮面舞踏会でもないのに仮面をつけていたらただの変人だ」
「それならば仮面舞踏会を開きましょう! 舞踏会は王宮で何度も開かれているではありませんか。そのうちの一つくらい仮面舞踏会にしても、バチは当たりませんでしょう?」
「舞踏会に招待されるような身分の者なら、服装や背格好で私だとわかるはずだろう」
「……ロイ様、あまりにリアリストすぎては女性にモテませんよ」
「不特定多数に好かれたいと思っていないから問題ない」
「心を射止めたいと思った女性にも好かれませんよ?」
「……」
ロイドが考え込んだ。この反応はまさか?
「もしかして、やはり意中の相手がいらっしゃるのですか? それならこうして私と一緒にいる場合では……」
「あなただと言ったらどうする?」
私の大げさに慌てる身振りが止まった。足を止めた私にロイドが振り向く。
夜色の瞳に見据えられ、貼り付けにされたように見つめ返す。
ロイドは低く艶やかな声で、はっきりと告げた。
「エルーシャ、あなたが好きだと言ったら?」
「……わ、わたしは……」
喧騒は耳にはいらない。
他に誰もいないような錯覚に陥りながら、私は呻くように言った。
「私には……ロイド様を幸せにすることができません……」
きっと私の顔は泣きそうに歪んでいる。どうしてこんなことを言わせるの。
ロイドはほんのわずか、視線を落とした。
「どうしてエルーシャがそう思うかわからない。今日は楽しくなかったか? 私は、楽しかった」
「……それは、」
「すまない、こんなふうに責めたいわけではないんだ。ただ、あなたに知っておいてほしかった」
言葉が出ず首を横に振る私に、ロイドが微笑む。緊張を解くようなやわらかな笑みだった。
「今日はここでお別れだ。あなたを家まで送るようアルバに言っておく。それでは、また」
「……はい。ありがとうございました」
ロイドは踵を返して去っていった。立ち尽くしたままの私の側に、入れ替わるようにアルバが近づく。
「……私はどうすればよかったんでしょうか」
前置きのない問いかけに、アルバは困ったように笑った。
「エルーシャさんの思うようにされたらよろしいと思いますよ。さあ、ご自宅まで送ります」
騎士の後を追いながら思う。今夜は眠れなさそうだ。




