十七話 18歳 12
エルーシャの母は、よくその胸に抱いて子守唄を歌ってくれた。
「また意地悪を言われたのかい? お前は茨の道を歩くと自分で決めたんだろう? 明日からはまた胸を張ってがんばるんだよ……」
ラヴィニアの母は厳格な人間だった。その腕に抱かれた記憶は数えるほど。
「今日だけは甘えることを許しましょう。さあ、おいで。泣いてもよいから何があったか言ってごらんなさい」
私は母の声に誘われて、そっと抱かれる。母は慣れない手つきで私の背中を撫で、私がうとうとし始めると小さな声で歌を歌う。
涼しげでよく通る声は、そのときにはくぐもって聴こえるのだった。
歌が聴こえる――……
「お母さま……?」
「やだわ、わたくしまだ母と呼ばれるような年齢ではなくってよ」
記憶とは全く違う鈴が鳴るような軽やかな声に、私はぱちりと目を開けた。見たことがあるような、ないような、そんな天井が視界に飛び込む。
「目が覚めた?」
ベッド脇の椅子に腰掛けていた女性が立ち上がって私を覗き込んだ。清廉でありながら、どこか艶然さも感じさせる不思議な魅力を持つ女性。
「フラン様……?」
「そうよ。ここはわたくしの部屋」
「どうしてフラン様の部屋に……」
「傷ついた女の子を世話するのは上等な場所でなくてはならないでしょう?」
私が身を起こすと、フランは芝居がかったしぐさで部屋を示す。私は既視感の正体に気がついた。ここはかつてラヴィニア王女の部屋だった。調度品の配置は変わっているけれど、物自体は見覚えのあるものが多い。
上等な場所という言葉にふさわしく、今も柔らかな日光が窓の外から差し込んでいる。
ぼんやりと周囲を見回していると、まだ寝ぼけていると思ったフランが状況を説明してくれた。
「あなた一日中寝ていたのよ。できる限りは手当てはしたけれど、清拭はできていないから気持ち悪いでしょう。今お湯を準備してもらうわ」
「お待ちください、どうしてフラン様が自ら?」
私の当然の問いに、フランはあけすけに答える。
「わたくし、あなたに恩を売っておきたいの」
「恩?」
「そう。お湯を頼んでくるから待っていてちょうだい。あ、そこの水差しのお水は自由に飲んでよろしくてよ」
フランは私が止める間もなく風のように去っていった。私は自分の喉がカラカラに渇いているのに気づき、遠慮なく水を飲む。冷たい水が喉を通るのを感じ、ようやくひと心地着いた気分になる。
すぐにフランが侍女を伴って戻ってきた。侍女は湯気の立つ盥を持っている。
「さあ、手伝って差し上げて」
「布をいただければ自分でできます」
「背中は拭けないでしょう? いいから黙ってわたくしに恩を売らせなさいな」
さっきから恩と言っているが何のことだかわからないまま、私はされるがまま服を脱ぎ、身体を拭いてもらうことになった。温かい布で身体を拭われるのはとても気持ちがよくて、私は目を瞑る。
前は自分でやると断って侍女から布を受け取ると、あらためて自分の身体を確認した。手首以外にもあちこちぶつけたところが痣になっている。我ながら痛々しい。あまり強く押さないよう、優しく布を滑らせていく。
こちらに視線を向けないようにしてたフランがちらりと私のほうを見て、またすぐに目を逸らした。
「まったく、乙女にこんな傷をつけるなんて許せないわ。クレメンティ卿は裁判にかけられるそうよ。できる限り重い刑罰にしてほしいわね」
「フラン様がそのようなことを言ってよろしいのですか?」
「あら、今のわたくしはただの私人よ。それに、わたくしあの男が大っ嫌いだったの」
私情がふんだんに含まれた発言に思わず侍女の顔を見たが、彼女は「何も聞いてません」と言うようにすまし顔をしている。
身体を拭き終え用意してくれた服に着替えると、私はお礼を言う。侍女は頭を下げ、盥を持って出て行った。
フランが改めて私に向かい合い、にこーっと華やかな笑みを作った。
「ひとまず綺麗になってよかったわ。それで、あなたの側に付き従っている男性は何というお名前なの?」
「付き従う……? グラントさんのことでしょうか。いつもムスッとしていて不機嫌そうな」
私の失礼ながら的確な表現に、フランは「そう!」と手を叩いた。
「その方よ! グラント様というのね」
うっとりと頬に手を添えるフランに、私の頭にまさかという言葉が浮かぶ。
「フラン様、もしかしてグラントさんのことがお好きなんですか?」
「ええ、一目惚れよ」
どうして! グラントなんて愛想のかけらもないし、いつもむっつり黙りこくっていて見るからにとっつきにくいじゃない。
それにあなたの隣にはこの上なく格好いい、正真正銘の王子様がいたでしょう。ロイドがグラントに負けたというの? そんなことありえて?
「恐れながら、王太子殿下のことは何とも思っていらっしゃらないのでしょうか……?」
「あら、嫉妬しているの? 安心して、わたくし、得体の知れない笑顔しか見せない男性って好きじゃないの」
「得体の知れないなんてことは……」
「お父様と笑顔で会話する殿下を見ていたら、わたくし寒気がするの。まるで狐狸が化かし合っているようだったわ」
フランは腕をさすった。酷い言われようだ。あんなに素敵な笑顔なのに。それに、いつもいつも笑顔なわけではない。結構怒った顔も拗ねた顔も見せるのよ! 最近は怒った顔しか見ていない気もするけど。
……いけない、動揺しているわ。冷静になるのよ、エルーシャ。私は深呼吸をした。
「どうしてグラントさんなんです? 仏頂面の人よりは笑顔の人のほうがよくありませんか?」
「あら、一目惚れに理由をつけるなんて無理よ。いつの間にか目で追うようになっていて、これはわたくし恋をしてしまったのだわと気づいたの。そうしたらいつもいつもあなたが側にいるんだもの。何者って思うじゃない? わたくしなりに調べてみたけれど、目ぼしい情報は見つからず、どうして一官僚が護衛をつけているのか謎なまま。だからギディにも探りを入れるように指示したのだけど、あの男『エルーシャさんはガードが固くて探れませんでした。有能な人に嫌われたくないのでこれ以上はご容赦を』などと言って職務放棄したのよ。いったい何年外交官やってるというのかしら。とんだ体たらくよ」
「ギディさんが何ですって?」
立て板に水とばかりにつらつらと話すフランに圧倒されて聞いていたが、突然出てきた名前に面食らって聞き返す。
「ギディさんが私をデートに誘ったのって、フラン様に命じられたからなのですか?」
「わたくしが頼んだのは情報を集めることだから、きっとギディもあなたのことが気になっていたのだと思うわよ」
「そんな慰めは要りません……私の乙女心を返してください……」
デートに誘われて浮かれてしまった自分が恥ずかしい。フランを恨みがましく睨むが彼女は悪びれず宣った。
「わたくし、欲しいものは持てる力を全て使って手に入れることにしているの。あなたには申し訳ないことをしたと思っているけれど、必要なら同じことを何度でもやるわ。でもあなた、ギディの誘い文句にも全然靡かなかったというじゃない? 見た目はそれなりだし口は上手いから、あの男あれで女性にはモテるのよ。それが全く形無しなんだから可笑しいったら。そのせいでこうやってわたくし自ら動くことになったのだけれどね」
フランは肩をすくめた。
「こんな性格だから、わたくし嫌われることが多いの。あなたもわたくしのことが嫌いになった?」
「いいえ、嫌いになんてなりません」
この人を好く人と嫌う人でくっきりと分かれるのは想像にたやすい。私はこの人の生き方を羨ましいと思う。私が持ちえない強さを持っている人だ。むしろ好ましいとすら思えた。
でも、意趣返しぐらいは許されるだろう。私は含みのある笑顔で言う。
「グラントさんにはしっかりとフラン様のことを売り込んで差し上げますよ」
「ちょっとそれ、言葉通りじゃないのではなくって? 良い面だけを言ってちょうだいよ!」
「さて、どうでしょうかね。フラン様が人を動かして暗躍することがお得意そうとか、事実しか言わないつもりなんですけど、聞きようによっては良い面だけには聞こえないかもしれませんね」
「……意外とあなた、したたかなのね」
「官吏なんてやっているくらいですから」
私はにこっと笑った。フランが頬を膨らませる。
部屋にノックの音が響いて、私たちは揃って扉のほうを向いた。侍女が顔を出す。
「フラン様、お客様が」
「どなた?」
「メイザン国の王太子殿下がいらしています」
「まあああ、起きたばかりというのにお耳が早いこと」
フランは私を一瞥してからかうような視線を寄越す。それからおもむろに立ち上がると入口に歩み寄り、扉を大きく開けた。部屋には入れず、その場で仁王立ちする。
「殿下、ごきげんよう。いくら心配していたからといって起きて早々に押しかけるなんて、殿下も朴念仁でいらっしゃいますわね」
フランの直球な言葉に私は背後で目を剥いた。
「それにここは乙女の部屋ですのよ。少しは遠慮なさったらいかが?」
「先触れも出さず申し訳ありません。少しだけ2人で話をさせてほしいのです」
「乙女の部屋に押しかけたばかりでなく、病み上がりの女性と2人きりにしろとおっしゃるの?」
「お願いします。あなたはこの男と散歩でもしていてください」
「あら? まあ、グラント様?」
露骨にフランの声が華やいだ。ロイドに死角から引っ張り出されたのはグラントだった。名前を聞いて、私は入口を覗き込む。私に気づいたグラントが安堵を見せ小さく手を上げたが、その顔には「どうして自分が連れてこられているのだろう」と書かれている。
フランは渋る素振りを見せていたが、ただの振りであるのは明らかだった。
「そういうことなら仕方がないですわね。わたくしも鬼ではございませんもの。それではわたくしはグラント様に宮殿を案内して差し上げることにしますわ」
「どうして俺の名前を知っているんです?」
「ありがとうございます、フラン嬢。少しだけ部屋をお借りします」
グラントの疑問は黙殺され、フランに腕を引っ張られていった。ロイドもフランがグラントに気があると知っていたらしい。
お似合いと思っていたけれど、2人ともその気はまったくなかったのね……私はがっくりと肩を落とした。




