十八話 18歳 13
ロイドは部屋に入ると私の傷の具合を確認するように視線を滑らせた。それからベッド端に腰掛けている私の前に跪き、手首の包帯を検める。
「手の痛みはどうだ?」
「少し痺れが残っているだけです。あの、ロイド様……ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「……あのギディという男が持ってきた手紙を読んだときは、腑が煮え返るかと思った。どうして大人しくできないのかと」
「申し訳、ございません」
「あなたが大人しくしていると信じた私が愚かだったのだ。閉じ込めておかねばどこへでも自由に飛んで行ってしまう」
「処分は如何様にもお受けいたします」
「この件ではエルーシャは高官という立ち位置になっている。処分を下すとしても帰国後しばらく経ってからだろう」
私は神妙な面持ちで頷いた。
「あなたを失うかもしれないと思うと、恐くなった。……もう二度とあんな思いはしたくない」
ロイドが私をそっと抱きしめた。その腕は僅かに震えている。
今でもラヴィニアのことがロイドを苦しめているの? 私に王女の影を見ているの?
私は抱き返すこともできずに腕をだらりと下げたまま、未だ亡き王女が亡霊のようにロイドに取り憑いているかもしれない事実に慄いた。
しばらくしてロイドは私から身を離した。その顔は既に冷静な為政者の顔を取り戻している。私は背筋を正した。
「レオのことを説明しようと思って来たのだ。彼はこの宮殿内で保護されている。表向きは身元不明者として」
「そうですか……」
「今後どうなるかはまだわからないが、悪いようにはならないはずだ。首相には貸しができたからな」
「貸しですか?」
借りではなく貸し? 私は首を傾げた。クレメンティの屋敷では、ファノン首相はロイドに貸しができたと喜んでいたが。
「ああ。お互いに、という形だが。密書の件でかなり有利に事が運べた。どうやってあの小部屋について知った? これも侍女に聞いたと言うつもりか?」
「書庫に通いづめている最中に偶然発見しました」
「……偶然か」
「はい、偶然」
「……あなたはいったいどれだけ秘密を抱えているのだろうな」
ロイドは当然信じていない顔である。長年探されてきた部屋を部外者がたまたま見つけたというのはいかにも苦しいが、これで押し切るしかない。
「エルーシャが真実を語っていないことはわかっている。それなのに、あなたを信じたいと思ってしまう私はどうかしているのだろう」
「……」
私は頭を垂れて反論しない。同意しているようなものだが、元より返事は期待していないというようにロイドが続けた。
「確認しておきたいことがある。あなたは、エミリオ王子の存在がこの世からいなくなっても耐えられるか?」
「それは、王子が、ということなのですよね?」
「そうだ」
私はロイドの言いたいことを理解して、首肯する。
「彼がそれを望むなら私に異論などございません。名がどうであっても、生きていてくれればいいのです」
「わかった」
「心より感謝いたします、殿下」
ロイドは礼に返事をせず私から目を逸らし、視線を部屋に彷徨わせた。その瞳はしっとりと懐かしさを帯びている。
「あの鏡台、残されていたのだな」
誰に言うわけでもなくぽつりと呟く。視線の先には美しく繊細な装飾が施された鏡台があった。
私は誘われるようにベッドから足を下ろし、鏡台に近づいた。飴色に光る木の台座を撫でる。私が母から受け継ぎ、母はその母から受け継いだ、代々の王女が愛用してきたもの。
綺麗に磨かれた鏡台からは今も大切に使われていることが伝わってくる。
「……ラヴィニア王女はその鏡台がお気に入りだった。今のあなたのように、愛おしそうに撫でていた」
ロイドの言葉に手を止める。振り返ると、彼は静かな目で私を見ていた。
「王女は無鉄砲ではなかったし、常に笑みを絶やさない穏やかな方だった。……不思議だな、性格も容姿も全く似通っていないのに、そうやって微笑むあなたとラヴィニア王女が重なって見えることがある」
「……私はエルーシャ・リンスです。殿下は非業の死を遂げた王女の影を身近な女に重ねているだけでいらっしゃいます」
「あなたにそんなふうに言われると、辛いな」
私の断言に、ロイドは自嘲混じりの笑みを漏らした。
「エルーシャの言う通り、虚像を押し付けているだけだな、すまない」
「いえ」
短く返して頭を下げる。私の声は震えていなかっただろうか。
翌日、私はあてがわれている元の客室に戻った。
私の無謀な行動のせいで予定の帰国日はとうに過ぎていた。私はグラントの監視下に置かれながら、客室で絶対安静を言い渡されている。
グラントに会ったとき、彼はしばらく私を仏頂面で睨んでから、私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。言いたいことはたくさんあるだろうに、ただ無言で無事だけを喜んでくれているのが伝わって、私は泣くのをこらえて歯を噛みしめた。
代わる代わる色んな人が見舞いに訪れ、私は驚きつつ彼らに応対したが、ギディが来たときには私は駆け寄って彼を出迎えた。
「ギディさん!」
「リンスさん、ご無事で何よりです。心配しましたよ」
「ギディさんには何とお礼を言えばいいか……ありがとうございました」
「僕はリンスさんに頼まれたことをしただけですから。グラントさんに手紙をお渡ししたときは目線で殺されるかと冷や汗をかきましたけどね」
「はは……すみませんでした」
私は低頭して謝った。グラントはいつもの威圧感たっぷりのしかめ面で部屋の片隅に立っている。本人を前にしてはっきり言うギディはなかなか肝が据わった男だ。
クレメンティのところへ行く前に、私は念のため保険をかけていた。蝙蝠が空を飛び始める頃になったら私の部屋を訪ね、私がいなければ隣の部屋のグラントにギディに預けておいた手紙を渡してほしいと頼んでおいたのだ。
ギディは約束どおりグラントに手紙を渡し、手紙はすぐさまロイドの手に渡った。手紙には自分がクレメンティの屋敷へ行くつもりであることと、小部屋と密書の存在について書いてあった。私が死んだらクレメンティの罪を暴いてほしいという願いを込めて。
直接ファノンの手に渡らないようにしたのは、私が死にレオが生き残った場合、レオの存在が闇に葬られる可能性が高いから。
勧められたお茶を上品に口にしてから、ギディは「実はですね」と告白する。
「僕としても謝罪の気持ちがあったのですよ。フラン様から聞かれたのでしょう? 探るような真似をして申し訳ありませんでした」
「そんな、全然気にしていません」
「結局何も探らせていただけませんでしたからね。フラン様には役に立たないと怒られてしまいました。そんなわけで、負い目があった僕はリンスさんの頼みを聞くのはやぶさかではなかったのですよ。手紙を渡すくらい大して労力ではありませんし。その後は思いのほか大事になってびっくりしましたが」
ギディは笑っているが、大事どころの話ではなかったはずだ。ロイドからもたらされた情報によってルクサンディの官僚たちは上を下への大騒ぎであっただろう。あの短時間で罪状を整えて兵士を派遣するのは苦労したにちがいない。
「裁判官の中に何人か買収された痕跡のある者がいまして、家宅捜索で物証を見つけられそうです。彼らを完全に排斥できれば少なくとも終身刑にはなると思います」
「……そうですか」
私は複雑な胸中で相鎚をうつ。罪を償わせることに異論はないが、彼がいなければレオは生きていなかっただろう。
たとえただの利己を追求した結果であっても、それだけは感謝している。
その後もグラントに会いにフランが訪れたり官僚仲間が顔を出してくれるのに対応していたが、見舞い客で一番驚いたのは、何を隠そう外交トップのバルフォアが現れたことだ。
忙しくて寝る暇も惜しいだろうに、仕事の合間を縫って顔を見に来てくれたらしい。私が元気そうなのを見てすぐに帰っていったが。
これは少し、けっこう、かなり嬉しかった。それからしばらく口元が緩みっぱなしで、食事を持ってきたグラントに気持ち悪そうな目で見られる。
「そんなに嬉しいか?」
「だってわざわざバルフォア様がお見舞いに来てくださったんですよ、あの実務一辺倒な閣下が!」
「よほど気に入られたんだなあ」
「えへへ」
締まりのない笑顔で私は食事のトレイを受け取る。
「そういえばフラン様とは何か進展がありましたか?」
「恐ろしいことをさらりと言うな! お前からあのお嬢様に何とか言ってくれよ」
「あんな美人に迫られて喜ばないなんて変わってますね」
「俺の好みはしとやかで慎み深い女性なんだ。それこそラヴィニア王女みたいな」
「ラヴィニア王女?」
「王女は常に優しげな微笑みを絶やさなかった方なんだろ? 宰相閣下から聞いたことがある。お前のほうがよく知っているんじゃないのか?」
「本当は王女も優しいだけじゃなかったかもしれないですよ」
笑みで武装していただけで、王女らしく気位は高かったもの。自然な笑顔でいられたのは、もしかしたらロイドと幼い頃のエミリオの前だけだったかもしれない。
グラントは「夢を壊さないでくれ」と苦い顔をした。




