【2】 東都区
船の停泊した港には、太陽を描いた旗と、アードを表す薔薇を描いた旗が並んで風に揺れていた。
コウヤの乗せられていた船は、停泊している船と同じ形をしており、区別は船体に刻まれた数字だけでしかできない。そのすべての船にある同じ文字は、“JP”で、それがジャパネという国名を表しているのだと知ったのは、すでにどこかへ飛んで行ってしまったバジルから教えられた。
港には、背の低い建物が立ち並び、その前にビニールで囲われた市が立っている。時刻は太陽が沈んだばかりの夕刻で、人の姿はまばらだった。
中に一族の姿はないように思えた。アード管轄区がどのように管理されているのか知らないコウヤだったが、適度な監視体制は強いているのだろうと思っていたので、もしかしたら一族に守って貰えるのかもしれないと、少々の甘い考えを持っていたのだ。それが見事に裏切られ、縛られたまま人に船から下ろされようとしていた。
コウヤは、人の匂いの染みこんだ黒いコートを着せられている。そのコートのフードを目深にかぶせられ、首筋の刻印は目につかないように、包帯を幾重にも巻かれている。口にも布が巻かれ、声を奪われていたし、袖を通していないコートの内側後ろで腕を縛られている。腰に巻いたベルトに鎖を繋がれ、隣にいる男に引かれているのは、近づけばわかる。その姿を人は異質に思うのか、すれ違うたびに視線を向けて来るが、みな口を噤み、見て見ぬふりをしていた。
“人”の匂いが染みついた土地は居心地が悪い。
時折感じる一族の気配に安堵を覚え、いかに自分が一族の地に馴染んでいたのかを知った。
四角く黒い乗り物に乗せられたコウヤは、両脇を“人”で固められ、頭を上げることを許されずにどこかへ運んで行かれた。
箱型の乗り物の外を風が切る音が聞こえている。時折、停まっては動き、体を左右に揺らされながら、一言の会話もない箱の中で、長く感じる時間を過ごした。
扉が開かれ、地に足を下ろした時、風に甘い香りが含まれているのを感じた。ハラハラと舞い落ちる桃色の小さく薄いものが、地面いっぱいに広がり、風に運ばれ、舞い上がっている。
俯いたまま見える景色の先に、地面と同じ色をした木々が見えた。美しい桃色の固まりから運ばれて来る香り。それが花の香りであることに気づく。自然というものを消し去られた大陸では見られない風景を、船の上でも、地に足を付けた先でも見られた。
単純に、美しいと思った。
美しい自然の景色の中に、この国の文明が成り立っている。
“人”の匂いと自然の香り。全てが混ざり合い、独特な香りとなってコウヤの中に植えつけられて行く。
すれ違う人の姿は、大陸の者とは違い、濃い色の髪をして、色とりどりの衣装を身に纏っていた。
一族に支配されている国とは思えないほど自由があり、誰もが平等に暮らしているように見える。
ここには惨殺や破壊の陰が見当たらず、そういうものから隔離された、“人”の暮らす土地なのかと思えた。
俯いたまま道を歩き続け、いくつかの建物を通り過ぎ、鉄製のレールを越えた。その先は、煉瓦を敷いた道になっており、階段を登り、布の地面を踏み、また階段を下った先の扉を潜らされた。
道を記憶しようと必死で地面を見ていたが、地面と時折視界に入る建物だけでは目印になるものが少なすぎ、結果、どこへ連れて来られたのかわからなかった。
ただ、匂いの記憶は鮮明で、閉塞された空気の香りは、どことなく大陸にある建物の内部を思い起こさせ、さらには薄くであるが血の匂いも嗅いだ。匂いで道を選ぶことはできるかと思っていると、硬質な音が響いた。
思わず音の方を見ると、重そうな黒い二枚扉が開き、黒い服を着た男がひとり、その後ろを同じような服を着た男がふたり、颯爽とした足取りで入って来た。同時に濃い香りが鼻に届く。交じり合う匂いは、男たちから発せられている。こうした匂いは、一族の者も愛用していた。あまり多くはなかったが、着飾ることに興味を持つ一部の一族が香水と呼ぶ液体を身に纏っていたことを思い出す。それは“人”の匂いを消し、その者の好みを表しているように思えた。
その者たちもまた、コウヤの存在に気づくと、冷めた視線を投げかけて来る。後に続くのは侮蔑の色。面倒くさげな態度だった。
「その者がそうか」
コウヤから2メートルほど先で立ち止まった男は、コウヤの横に立つ者の顔を見て、顎を少々上げて見せた。
それが合図だったのだろう、横の男がコウヤの膝上を蹴り飛ばし、その勢いで膝を床に落とされ、膝と両手を床に付いた格好のまま、頭を地面に押し付けられる。
ヒヤリとしたものが首筋を通った。
それがナイフであると知ったのは、首と肩口を覆っていた包帯が切れ、長く床に垂れ下がったからだ。
左右の男の足が伸びて来て、コウヤの両手を踏みつける。
左側の男の手がコウヤの髪を引き上げ、不恰好に斜めに顔を上げさせられた。
首が引き攣る。
それにより、首の刻印が男の目に、より見やすく晒された。
「骸骨の刻印……なんと言ったか……」
顎に手を置き、言葉を濁した男の言葉尻を汲んだのは、男の背後に控えている男のうちのひとりだった。
「ベレスと呼ばれる種族の刻印が骸骨であると言われております」
頭を下げ、控えるようにそう言った男は、前に立つ男の視線を受け、胸に手を当てた。
「ベレス……確か、行方のわからぬ一族の長だったか」
「その通りです、才馬首相。この者の刻印はベレスを意味し、現在はアード当主の配下にあります」
「まだ子どもではないか……」
サイバ首相と呼ばれた男は、コウヤを見下ろしながら、渋面をつくった。
「我らの命運をこんな子どもに預けられるのか? 話をするだけ無駄だろう」
呆れた顔で、大きくため息をついた才馬首相は、憤慨だという態度でコウヤを見限るように視線を外し、後方の男を睨みつけた。
「種族といえど、アード当主と直に接した者は数少なく、その者との対話が実現できぬ以上、この者の存在は貴重だと言えます。見た目が幼いのは刻印の影響かと。実年齢は18、この者の妹は、アード当主に所有されている。その点から見ても、この者の存在は我らにとって有意に働くと思われます」
男は、メガネの端を指先で押し上げながら、手にした資料に視線を落とし、重要な情報を伝えている。
渋面をつくったまま、才馬首相は男を睨んでいたが、何か気に食わないことでもあったのだろうか、見限るように黒い扉の方へ歩み始めた。
「全ては桐原、お前に委ねる。私は忙しい身だ、子どもと話し合っている時間はない」
「了解致しました、才馬首相。後ほど報告に参ります」
書類を抱え直したキリハラという男は、恭しく腰を折り、才馬首相の背中を見送った。
才馬首相の後に、もうひとりの男が従って行く。その男の顔には嘲りがあり、その対象は桐原だった。
黒い扉が閉まると場が静まり返り、桐原の纏っていた緊張が緩む気配がした。
「この者を当初予定されていた部屋へ連れて行け」
桐原は、コウヤの左右に立つ男にそう命令すると、深いため息を吐き出した。
コウヤはまた男たちに連れられ、腰の鎖を引かれるようにして、歩き始めた。




