第1話 炎上を消す男、炎上を始める男
午前六時三十分。佐藤任三郎の朝は、冷たい牛乳をカップに注ぐ音から始まる。
都内のマンションの一室は、モデルルームのように整然としていた。キッチンには磨き上げられた調理器具が寸分の狂いもなく並び、リビングのテーブルには埃一つ落ちていない。
佐藤は白い陶器に満たされたそれを、ゆっくりと喉へ流し込んだ。三十歳になる彼の佇まいには、年齢以上の落ち着きと、どこか冷ややかな静けさがある。
洗面所で顔を洗い、アイロンがけされたシャツに袖を通す。濃紺の仕立ての良いスーツを着込み、鏡の前でネクタイを締める。端正な顔立ちは引き締まっており、結び目を整える指先にも無駄な動きがなかった。
マンションを出た佐藤は、朝の澄んだ空気の中を歩き、駅へ向かう途中の定められた屋外喫煙所へ立ち寄った。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。紫煙が朝の光に溶けていくのを眺めながら、彼はスマートフォンを取り出し、SNSのトレンド欄をスクロールした。
同じ女性の泣き顔が、何度も画面に現れる。昨夜から急速に拡散されている美容サロンの告発動画だった。
投稿者は、美容系インフルエンサーの「MIIKA」。
チャンネル登録者数とSNSのフォロワーを合わせれば百万人を超える、若年層から絶大な支持を集める女性だ。
動画のタイトルには、刺激的な言葉が並んでいた。表参道の人気美容サロンで受けた施術と接客がいかに不快であったか、そして担当した女性スタッフがいかに無礼であったかを涙ながらに訴える内容だった。
佐藤は煙草の灰を落としながら、倍速で動画を確認した。
画面の中のMIIKAは、華やかな容貌に悲痛な表情を浮かべ、「名前は伏せますが、皆さんも同じ被害に遭わないように注意してください」と語っている。しかし、動画の背景に映り込んだ店舗の内装や、彼女が挙げた施術日時のヒント、特徴的なスタッフの髪型などの情報から、標的とされた美容サロンと従業員の個人情報は、投稿からわずか数時間で特定されていた。
コメント欄やSNSのタイムラインは、MIIKAに同情するファンたちの熱狂的な言葉と、特定された女性スタッフに対する人格否定や攻撃的な言葉の羅列で埋め尽くされていた。
佐藤の黒い瞳が、わずかに細められた。
彼はその画面を閉じると、吸い終えた煙草を灰皿で確実に揉み消し、港区赤坂にある自身の事務所へと向かった。
★★★★★★★★★★★
赤坂の裏通りにある雑居ビルの四階。控えめなプレートが掲げられた「リカバリー・ライン」のオフィスに、午前十時ちょうど、二人の女性が訪れた。
表参道の美容サロン「アトリエ・ルーチェ」の経営者である宮原直美と、その従業員である小田由梨だった。洗練された仕立てのジャケットを着こなす宮原も、手入れの行き届いた髪を低めにまとめた二十代半ばの小田も、昨夜からの炎上で一睡もしていないのか、その表情には深い疲労と憔悴が色濃く刻まれている。
「佐藤先生……朝早くから申し訳ありません。もう、どこに相談すればいいのか分からなくて……」
「いえ。まずは座ってください、宮原様。……それと、温かいお茶をどうぞ」
応接テーブルの向かいで頭を下げる宮原と、隣で赤く腫らした目元を伏せる小田の前に、佐藤は湯呑みを置いた。
「……ありがとうございます」
「すみません、なんだか私、手が震えてて……」
小田が湯呑みに手を伸ばしかけて、小さく笑おうとした。しかし口元はすぐに引きつり、彼女は膝の上で強く拳を握りしめ直した。
「無理に飲まなくても構いませんよ。まずは深呼吸をしてください」
佐藤は向かいの席に腰を下ろし、静かな声で言った。感情の昂ぶりを感じさせない穏やかで丁寧な所作に、宮原はわずかに息をついた。
「現在起きている状況の概要は、公開されている動画とSNSの動向から把握しています。そのうえで、私に確認できた事実だけを話してください。……小田様、MIIKA氏への接客中、動画で主張されているような発言はありましたか?」
「あ、ありません……! 本当に、そんなこと一言も……」
「由梨、落ち着いて。先生は味方だから、順番に話せば大丈夫よ」
「……はい。すみません」
小田は顔を上げ、掠れた声で言葉を継いだ。
「昨日、MIIKAさんは予約時間より四十分遅れて来店されたんです。でも、すぐ後のお客様のご予約も入っていたので、規定どおり施術メニューを一部短縮するご説明をしました。そうしたら、急に不機嫌になられて……」
「不機嫌、ですか」
「はい。『私が誰だか分かってるの?』『ストーリーズで店の名前を出してあげようと思ってたのに』って。……私、どうお返しすればいいか分からなくて、ただ規定ですのでとしか言えませんでした」
「なるほど。ストーリーズでの宣伝は、店側から依頼していたのですか?」
「まさか」
宮原が即座に首を振った。
「うちはインフルエンサーの無償招待もPR依頼も一切やっていません。通常の予約サイトから、一般のお客様としてご予約いただいたんです」
「分かりました。では、動画内で語られていた、髪質や容姿に対する侮辱というのは?」
「あれは、切り取られています!」
小田は思わず身を乗り出し、はっとしたように声を落とした。
「……ご希望された施術が、かなり強い薬剤を使うものだったんです。でも、MIIKAさんの髪はすでにブリーチが何度も重なっていて。『今のブリーチ毛の状態ですと、ご希望の薬剤は髪が傷みすぎてしまうのでお勧めできません』とお伝えしました。それを、動画では『お前の髪はボロボロで汚いと言われた』って……!」
言い終えた小田は、唇を強く噛んだ。
昨夜からサロンの電話は鳴り止まず、予約システムの問い合わせ欄には無数の抗議や嫌がらせが書き込まれているという。さらに小田個人のSNSアカウントまで特定され、彼女に対する根拠のない中傷が急速に広がり始めていた。
「昨夜、私たちの側からSNSで『事実無根であり、店舗の規定に沿ったご案内をした』と説明を出したんです」
宮原が額に手を当てた。
「私の判断ミスです。黙っていたら認めたことになると思って、慌てて出したんですが……かえって火に油を注いでしまって」
宮原が差し出したタブレットには、MIIKAが今朝投稿したばかりの短い動画が表示されていた。
そこには、余裕のある笑みを浮かべたMIIKAが映っていた。
『なんかお店側が言い訳してるみたいだけど、悲しいですね。自分の接客態度を棚に上げて、客を悪者にするなんて。有名人に対する嫉妬なのかもしれないけど、私は嘘をつく理由なんてないです。だって、あんな小さなお店を相手にするメリット、私には一ミリもないですから』
MIIKAの反論によって、サロン側の説明はさらに届きにくくなっていた。
「メリットがないのはこっちの方よ、と言いたいところですが……」
宮原は自嘲気味に息を吐き、すぐに真剣な目を佐藤に向けた。
「警察や弁護士の先生にも相談しようと思っています。でも、手続きには時間がかかると言われました。今すぐこの炎上を止めないと、由梨が外を歩くことすらできなくなってしまいます……」
「分かりました。これより、リカバリー・ラインが貴店の危機広報対応をお引き受けします」
佐藤は迷いのない口調で告げると、宮原に許可を得たうえで、店舗の予約管理システムの記録、当日の受付票、そしてMIIKAが公開した動画とSNSの投稿履歴をノートパソコンの画面に並べた。
佐藤の視線は画面上の数字と映像の細部を正確になぞっていた。宮原と小田が黙って画面を見つめる中、数分後、彼はノートパソコンを二人の方へ向けた。
「宮原様、小田様。まずはご安心ください。MIIKA氏の主張には、客観的な記録と照合した時点で看過できない不自然な点があります」
「……え? でも、当時の接客には録音も防犯カメラの音声も残っていないんですよ?」
「ええ。ですが、その説明では時系列が合いません」
佐藤は動画の一場面を一時停止させた。MIIKAが自宅の部屋で、サロンでの出来事にショックを受けて涙ぐみながら語っているシーンだ。
「MIIKA氏は動画内で、『今日、サロンから帰ってきてすぐ、夕方五時過ぎに自宅でこの動画を撮っています』と発言しています。動画の公開時刻は昨夜の二十一時。そして貴店の予約記録によれば、彼女が来店したのは昨日の十五時四十分、退店したのは十六時三十分です」
「はい、間違いありません。お会計の記録もその時間です」
「では、こちらの画像を見てください。彼女のファッションコーディネートを投稿しているサブアカウントの履歴です。昨日の十七時十五分に、渋谷のカフェのテラス席で撮影された写真が投稿されています」
「五時十五分……? 自宅で泣きながら動画を撮っていた時間じゃないですか」
「さらに、テーブルの上に置かれたレシートの端に注目してください。昨日の十六時五十八分という印字時刻が写り込んでいます」
宮原は、画面に表示されたレシートの時刻へ顔を近づけた。
「本当だ……。サロンを出た三十分後には、カフェでお茶をしてる……」
「ええ。それだけではありません。この告発動画の中で、彼女が着用しているネイルの色を見てください」
「ネイル……?」
小田は画面を見直した。昨日自分が見た手元の記憶と、カフェの写真の淡いピンク色の爪、そして動画に映るボルドーの爪を何度も見比べる。
「……あっ」
「お気づきになりましたか」
「はい……! 昨日ご来店されたときは、間違いなくシンプルなピンクのネイルでした。でも、この動画だとボルドーの複雑なアートになってる……。あのデザイン、オフからやったらサロンでも最低二時間はかかります」
「つまり、十六時半に貴店を出たあとカフェに立ち寄り、さらに二時間以上かけてネイルサロンで施術を受けてから帰宅した、と考えるのが自然です」
「じゃあ、帰ってすぐ夕方五時過ぎに泣きながら撮ったっていうのは……」
「ええ。現時点で動画の正確な撮影時刻そのものは確定できません。しかし、十七時前後に渋谷のカフェにいた記録とネイルの変化を踏まえれば、彼女の主張する撮影時刻には時系列上の矛盾があり、そのまま信用することはできません」
宮原の肩から、わずかに力が抜けた。
「……すごい。では、このレシートとネイルの矛盾をすぐにSNSで公表すれば、MIIKAさんの嘘を暴けるんですね!」
「いいえ、宮原様。それは今すぐに行うべきではありません」
「えっ……? どうしてですか? これだけ分かりやすい証拠があるのに」
身を乗り出した宮原を、佐藤は静かに制した。
「現在、世論はMIIKA氏の感情的な訴えに同調しています。この段階でサロン側が彼女のネイルや別投稿の矛盾を攻撃的に指摘すれば、ファンはどう反応するでしょうか。『論点をすり替えている』『客のプライベートなSNSを監視して揚げ足を取っている』と反発し、さらなる攻撃を招きます」
「……っ、そんな……」
「危機管理において最も重要なのは、相手をその場で言い負かすことではありません。被害を最小限に抑え、守るべきものを守ることです」
佐藤は手元のメモに、簡潔な方針を書き記した。
「本日、サロンが出すべき声明は一つだけです。『現在、事実関係を正確に確認中であり、従業員の安全確保のため、誹謗中傷や業務妨害に対しては法的手続きを含めた厳正な対応を行う』。感情を排し、確認できた事実と法的な姿勢だけを示してください。そして小田様は、今日からしばらく出勤を控え、SNSのアカウントも非公開ではなく一時的にログアウトし、物理的に画面から離れてください」
「で、ですが、私が休んで、お店も反論しなかったら……私たちが悪かったと認めることになりませんか?」
「一時的にはそう見えるかもしれません」
「なら、なおさら――」
「ですが、不用意な反論を止めることで、相手は『サロン側が黙った』と判断し、油断します」
佐藤の声は静かだったが、小田の言葉を自然に引き取っていた。
「虚栄心の強い人間は、自分が優勢だと思い込んだときにこそ、最も不用意な発言を重ねるものです。……反撃のための材料は、相手が十分に話し終えてから出す方が効果的です」
宮原と小田は顔を見合わせ、やがて深く頷いた。
「……分かりました。昨日の私の判断で状況を悪化させてしまったのは事実です。ここからは、佐藤先生のご指示に従います」
「ありがとうございます。……それと、小田様」
「は、はい」
「今の段階で、ご自身を責める必要はありません。事実関係はこちらで確認します。まずは、ご自身の安全を優先してください」
佐藤が真っ直ぐに小田を見て言うと、小田の目から張り詰めていた涙がこぼれ落ちた。
★★★★★★★★★★★
宮原と小田を見送り、必要な声明文の作成と弁護士への連携手配を終えると、オフィスには再び静寂が戻った。
佐藤はサロンの予約記録と受付票を保存した業務用のフォルダを閉じた。その資料を、依頼とは別の目的で使うつもりはない。
代わりに開いたのは、誰でも閲覧できるMIIKAの公開動画だった。
佐藤の視線は、動画の中でMIIKAが語ったある一言に留まっていた。
『前にもこういう失礼なスタッフに当たったことがあって、そのときは相手の将来を考えて黙っててあげたんですけど、やっぱりちゃんと言わないとダメですね』
佐藤はブラウザを開き、MIIKAの過去数年分の公開投稿、関連するまとめ記事、そして美容業界の求人・転職掲示板のアーカイブを検索し始めた。
キーワードは、MIIKAが過去に通っていたとされる複数のサロン名と、彼女の投稿が途絶えた時期。
三十分後、一年半前の日付がついた投稿が見つかった。
『あるサロンで最悪な対応をされた』
佐藤はその投稿の前後に公開された記録を洗い直した。
渋谷にある別の美容サロン。当時、SNS上で名前を特定され、中傷を受けた女性スタッフに関する掲示板の書き込み。そしてその翌月、そのサロンと提携関係にあった美容クリニックのPR案件にMIIKAが起用されたという告知記事。
佐藤はそれぞれの投稿の日付をもう一度確認した。
「……一度の失言や行き違いではない、か」
佐藤の声は低く、冷たかった。
画面には、MIIKAを擁護する言葉が並んでいた。そのすぐ下には、名前を特定された小田を罵倒する投稿が続く。
佐藤は一つのコメントに目を留めた。
以前にも、よく似た言葉を見たことがあった。かつて佐藤から最も大切な家族を奪った、あの無責任な言葉の羅列とよく似ていた。
佐藤はデスクの引き出しから、業務用のものとは異なる一台の黒いスマートフォンを取り出した。
ロックを解除し、暗号化された通信アプリを開く。
画面には七人の連絡先が並んでいた。
「Octogram」
佐藤は送信先を選び、MIIKAが公開している動画のURLと、彼女が主張する撮影日時の矛盾点、そして一年半前の類似案件に関する公開アーカイブを添付して、メッセージの冒頭に「Nより」と打ち込んだ。
『Nより。対象は美容系インフルエンサー、MIIKA。公開投稿の時系列に不一致を確認。彼女のファンコミュニティにおける情報拡散の経緯と、過去の類似被害について調査を開始する』
送信完了の表示が点いた。
佐藤はもう一度、先ほど見つけたMIIKAの投稿を開いた。
あのとき攻撃された女性は、その後どうなったのか。
まだ確認できていないことがあった。




