第1話 落ちた先は魔獣の鼻先だった
牛ほどもある魔獣の鼻先へ、戸塚勲は背中から落ちていた。
つい三秒前まで、東都ブレイブプロレスの解散興行のリングにいた。後輩の瀬名がコーナーから投げたバックドロップ。天井の照明が回って、背中がマットに触れるはずの一瞬に、世界のほうが入れ替わったのだ。瀬名が最後に何か叫んでいた気がするが、耳には届かなかった。
落ちる場所が違うのは、もう仕方がない。体は十五年分、勝手に動く。
顎を引く。両腕を広げて、床を叩く用意をする。床は赤茶色の砂だった。背中全体で受けると、ドン、と空気が鳴って、肺の息が一度だけ抜けた。
「……お、生きてる」
生きている。砂埃の向こうから、遅れて歓声が耳を殴りにきた。三万人。数えたわけではないが、すり鉢の壁一面に貼りついた顔の数は、そのくらいだと体が言っている。
目の前に、鼻息があった。
角が三本ある熊に似た何かが、前脚で砂を掻いている。体高は戸塚の頭の二倍以上。少し離れたところで、盾を落とした少年が尻もちをついていた。
「そこの人、逃げて! そいつ、見られるほど強くなるんです!」
何を言っているのか分からない。分からないが、少年の顔は本気だった。
「な、なんと! 空から男が降ってまいりました! 角熊との死闘の最中に、まさかの乱入者です!」
どこからか降ってくる拡声の声が、場内を揺らす。観客がまた沸いた。見世物の最中らしい。
魔獣が頭を下げた。突進の構えだ。戸塚は立ち上がりかけて、膝のサポーターを片手で押さえる。古傷が、いつもの位置で鈍く鳴いた。
逃げ切れるほどの足は、残念ながら持っていない。背を向ければ、その瞬間に角が来る。
だったら、受ける。
ドッ、と砂が割れて、角熊が来た。
正面から受けたら死ぬ。だから斜め前に体を入れる。角の根元は、角の先より速度が出ていない。そこへ肩を滑らせ、勢いに逆らわず、相手の流れに乗って背中から転がった。
一回転、二回転。最後の半回転で背中を丸め、わざと客席に顔を向け、大きく仰向けに倒れる。
セールだ。痛みを見せる。やられたと見せる。リングの上で十五年、六百試合以上やってきたことを、砂の上でもやるだけ。
「受け流した! 受け流しましたァ! 素手で、あの角熊の突進を!」
歓声が爆発した。
悪い気はしない。しないのだが、起き上がりながら、戸塚は妙なものに気づいた。
場外の壁に巨大な盤がある。水晶を埋め込んだ時計のようなもので、針の先に数字が出ていた。魔獣のほうは、さっきまで二百ちょっと。それが、いま、四百を超えている。
戸塚の頭上にも、小さな数字が浮いていた。
ゼロ。
「……あれ」
角熊の体が、ひとまわり膨れた。肩の筋肉が盛り上がり、鼻息が一段太くなる。足元の砂が、さっきより深くえぐれていく。
客の目が全部あの魔獣へ流れ込んでいく。顔の動き方を見れば分かる。
二度目の突進は、受け流したのに、風圧だけで体が浮く。
砂を噛みながら、戸塚は頭を回した。受けた。客が沸いた。それで膨れたのは、受けた自分の側じゃない。相手の体のほうだ。
……プロレスと、同じじゃないか。
技を受ける側がうまいほど、技を出した側が強く見える。ずっとそういう仕事をしてきた。ここではそれが、たとえ話でなく本当に起きているらしい。
なら、使い道がある。
少年を見た。まだ尻もちをついたまま、頭上の数字は四十八。目が合うと、少年は盾を拾いもせず、唇だけで「あ」と言った。
「そこの子! 剣、持てますか!」
「は、はい! 持てます、持てますけど!」
「じゃあ、立ってください。次、お願いします!」
戸塚は三度目の突進へ走った。ぶつかる直前に、わざと少年のほうへ体をひねる。受け身で背中を滑らせ、倒れ込みながら、右の手のひらを上に向けて少年へ差し出した。
どうぞ。
三万の視線が、倒れた男の手の先を追って、いっせいに少年へ動いた。
「おおおっ、客席が全部あっちを向いたぞ!?」
盤の針が跳ねる。少年の頭上の数字が、四十八から二百、三百、五百へ駆け上がった。目に見えない巨大な風呂敷が、客席から少年の背中へ、まとめて掛けられていくみたいだった。
少年の剣が、白く光る。
「う、わ……っ」
立ち上がった彼が、一歩踏み込む。角熊の三本目の角が、根元から宙を舞った。断末魔は三万人の歓声に潰されて、誰の耳にも残らない。魔獣はゆっくり膝を折り、砂へ沈んでいく。
「勝者、新人剣士ロイ! 勝者、ロイだあああ!」
爆音のような拍手の下で、戸塚は大の字になって空を見ていた。背中が痛い。肘は擦りむけた。膝は、まだ持っている。
三万人の拍手を寝転んで浴びるのは、初めてだった。十五年やってきて、拍手はいつも、勝った相手のものだった。それでいい。それが仕事だ。
なのに、砂の熱が背中から胸まで上がってくる。それが少しだけ、不思議だった。
そこへ衛兵が二人、槍を持って走ってきた。
「乱入者、立て! 場内への無断侵入だ!」
「あ、はい。立ちます立ちます。槍は、下ろしてもらえると」
戸塚は両手を上げた。腕を後ろに取られたところへ、少年が駆け寄ってくる。肩で息をしていて、頭上の数字はまだ三百を残していた。
「いま、わざと、俺のほうに倒れましたよね」
「どうぞ、お先に、と思っただけです」
「おい、喋るな」
衛兵に小突かれて、戸塚は歩き出した。ロイは何か言いたそうに口を動かして、結局、深く頭を下げる。
「お前、どこの所属だ。登録札は」
「所属は、東都ブレイブプロレスです。札は、ええと、持っていなくて」
「聞いたことのない組だな。魔力は?」
「魔力、ですか」
「……ゼロか、そう答えたいのか」
「いえ、あの、測ったことが、ないんです」
衛兵二人が顔を見合わせた。笑いを噛み殺した顔だった。何がおかしいのかは分からないが、あまり良い意味でないことだけは、背中の空気で分かる。
連行される通路に入る手前で、戸塚はもう一度だけ客席を見上げた。
満員の観客は全員が立っている。ただ、最上段の端に、ひとりだけ座っている人影があった。客席に背を向けて、膝の上で刀を拭いている。
三万人が見ているのに、その人は、一度もこちらを向かなかった。




